生物の進化

 ※Lubos HouskaさんによるPixabayからの画像です。

単細胞生物に続いて、多細胞生物が出現したことは、進化の過程において、大きな謎とされて来ました。

多細胞生物とは、動物や植物、魚や昆虫など、いわゆる生き物のことです。

どの生き物も、一つの細胞が分裂して増殖してできた、数え切れないほどの細胞の集合体です。

単細胞生物も分裂して増殖しますが、一つ一つの細胞は自由に動き回ります。

単細胞生物はどんなに数が増えても、集まって全体で何かをすることは、基本的にありません。

一方、多細胞生物の場合、それぞれの細胞たちは、全体で一つの個体を形成します。
人間で言えば、一人の体を作っているわけです。

体を作っている細胞には、様々な種類があります。

脳神経細胞、筋肉細胞、血液細胞、粘膜細胞、皮膚細胞、骨細胞など、それぞれの役割を果たすために、独自の形態や機能を備えています。

神経細胞と血液細胞、あるいは粘膜細胞など、どれも似ても似つかぬ姿をしています。
とても同じ細胞が、分裂してできたとは思えないほどです。

しかし、これらの細胞は共通の目的を持って、それぞれの役割を果たしているのです。
その共通の目的というのは、個体を形成するということです。

もちろん一つ一つの細胞が、自分たちがどんな個体を形成しているのかなんて、理解しているわけではないと思います。

それぞれの細胞は、ただ自分の特性に応じた、活動をしているだけなのでしょう。
それでもその活動によって、個体は形成され、安定的に維持されているのです。

個体と細胞たちの関係は、人間で言えば、社会と個人の関係みたいなものです。

ほとんどの人は、普段社会というものを考えないまま、自分の仕事をこなしています。
それでも人々の営みが、社会を築き上げているわけです。

 ※Linus SchützさんによるPixabayからの画像です。

単細胞生物と多細胞生物の違いは、個体を形成するかどうかです。
しかし、それは見た目の話です。

生命エネルギー的に考えるならば、両者の違いは、仲間の細胞たちが持つ、社会性の違いと言えると思います。

人間で言えば、個人個人が食べ物を求めて、さまよい歩いているのが、単細胞生物の生き方です。

それに対して、それぞれが役割を決めて協力し合い、手に入れた食料を、平等に分配する社会を作るのが、多細胞生物の生き方と言えます。

そういう点で、多細胞生物の細胞たちは、人間よりもずっと進んだ社会を、築いているようです。

では、単細胞生物の生物エネルギーをエネルギーDとして、多細胞生物の生物エネルギーを、エネルギーEとしましょう。

エネルギーDは単細胞生物の心だとします。
この場合、一つ一つの細胞には個性がありません。

それはエネルギーDが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んで、まさぐっているような感じです。

一つ一つの指先には、それぞれの感覚があるわけですが、統率しているのはエネルギーDなのです。

多細胞生物の場合、細胞は種類によって個性があります。

でも細胞は細胞なので、これもエネルギーEが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んでいる状態です。

多細胞生物の細胞に個性はありますが、自分という認識はありません。
ですから、全ての細胞はエネルギーEによって統率されています。

それで、個体という細胞の集合体を、形成することができるのです。

個体を形成できるということは、エネルギーEにはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。

エネルギーDが物質世界を把握できるのは、細胞周辺のごく限られた範囲です。

世界にとって、一つの細胞は一つの点に過ぎません。
ですから、エネルギーDは物質世界を、多くの点によって認識していると言えます。

それに対して、個体を形成して活動するエネルギーEは、点ではなく、もっと大きな空間として、物質世界を認識できます。

エネルギーDではわからない、別の世界を認識できるわけです。

その事から言えるのは、エネルギーEはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。

しかしエネルギーEが、物質世界を体験するためには、エネルギーDとリンクして、細胞という形態を、利用させてもらう必要があります。

つまり、エネルギーDとリンクしないといけないわけです。

 ※WikiImagesさんによるPixabayからの画像です。

単細胞生物の中には、分裂して増殖しても、仲間と接触したまま、塊を作るものがいます。
これは群体と呼ばれています。

恐らく、この群体という状態が、エネルギーDとエネルギーEを、つないだのでしょう。

エネルギーEとリンクした群体は、次第に単なる細胞の集合体ではなく、細胞によって役割を持つようになります。

そして、シンプルな形態の多細胞生物が誕生すると、そこから様々な形態の多細胞生物が、爆発的に現れたのだと考えられます。

初めは小さな生き物だったのが、次第に大きなものが現れるようになります。

そして海、陸、空と、あらゆる所を活動の場とした、数多くの生き物が、登場するようになるのです。

 ※homecare119さんによるPixabayからの画像です。

進化論を語る人の中に、生存に有利なものだけが生き残ると、言う人がいますが、あれは間違いです。

有利か不利かではなく、存在が可能なものは、ありとあらゆる姿で現れるのです。

それだけ生命エネルギーが、物質世界で姿を持とうとする力は、旺盛なわけです。

この世界に出て来るチャンスは、ただの一点も見逃さない勢いです。

環境が変わったために、死滅する生き物もいます。

でも、それは他の生き物よりも、生存が不利だったのではなく、環境の変化に適応できなかっただけのことです。

有利不利の問題ではありません。

話を戻し、様々な形態を持つようになった多細胞生物ですが、そのほとんどが、自分という概念はないと思われます。

そんなことはない、ペットの犬や猫は、自分というものがわかっていると、反論される方もいるでしょう。

でも、それは人間の影響で、そうなっているだけでしょう。

自然界の動物たちは、自分という概念は持っていないと、私は思います。

 ※David MarkさんによるPixabayからの画像です。

お腹が空いたとか、水が欲しいとか、熱くてたまらないとか、体がかゆいとか、そういう感覚は、動物にもあるでしょう。

餌や縄張り、あるいは交尾相手を巡って、他の仲間たちと激しく争う動物もいます。
これはオレ様のものだという、感覚があるのでしょうね。

でも、それと自分という概念とは、別なのです。

自分という概念は、観察対象として、自分自身をとらえた時に、生まれるものです。

自分の体は目で見えますし、触れることもできます。
ですから、体は観察対象になります。

しかし、その体に動きを指示している、自分の心を見ることはできません。
もちろん、触れることもできません。

自然の動物は生きることが、最大の目的と言えるでしょうから、意識の目は常に、外界へ向けられていると思います。

気持ちがいいとか、怖いとか、感覚や感情を感じながらも、それを感じている、心そのものの存在には、気づいていないでしょう。

ところが、人間は自分自身についても、自分とは何だろうと考えます。

これが自分を認識する、ということです。
そして、自分という概念を持っている、ということなのです。

生命の起源3

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

宇宙は生命エネルギーに満ちていると、私は考えています。

また、その生命エネルギーは一様ではなく、様々な状態のものが重なり合い、混じり合っているのだと思います。

地球にも、いろいろな状態の、生命エネルギーがあると思われます。

でも、この生命エネルギーは肉眼で見たり、手で触れたりはできません。

その代わり、生命エネルギーは物質エネルギーに働きかけて、私たちが知覚できるような、姿形を形成するのです。

ただ、全ての生命エネルギーが、この物質世界に、直接働きかけるわけではないと思います。

物質エネルギーに直接作用できるのは、とてもシンプルな生命エネルギーでしょう。

今の物理学が追求、あるいは解明している宇宙の法則は、このシンプルな生命エネルギーの働きかけを、説明したものなのだと、私は考えています。

さて、私は生命エネルギーを、精神エネルギーという見方でも、とらえています。

宇宙に様々な、生命エネルギーが満ちているというのは、様々な状態の心が、宇宙にはあるということです。

その中でも最もシンプルな心、つまり宇宙の最もシンプルな生命エネルギーの、心としての側面とは、どのようなものでしょうか。

私はこの心が、「存在する」という一点にのみ、集中した状態にあると考えています。

この心には、人間の心のような、思考や感情、感覚はありません。

物質エネルギーを通して、具体的な形態を持つということにのみ、執着しています。

とは言っても、自分という認識はありません。

存在への執着はあっても、存在している自分、という認識はないのです。

この生命エネルギーが、物質エネルギーに働きかけることにより、具体的な存在を、生み出すことができます。

その根本的なものは、恐らく素粒子だと思います。

しかし、素粒子だけでは不安定です。

その不安定な素粒子同士が、反応し合う中で、原子という、安定な形態が生まれます。

これは偶然にできたのではなく、できるべくしてできたと考えられます。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

どういうことか説明しましょう。

素粒子を形成したのが、最もシンプルな生命エネルギーだとします。
この生命エネルギーを、エネルギーAとしましょう。

生命エネルギーの中には、複雑性において、エネルギーAより少し上位の、エネルギーBがあります。

このエネルギーBは安定した存在を、意識しています。

そのためエネルギーBは、素粒子に働きかけて、原子という安定した形態を作ります。

エネルギーBは、直接物質エネルギーに働きかけて、原子を作るのではありません。

原子の材料となる、素粒子が形成されてから、その素粒子に作用して、原子を作るのです。

つまり、エネルギーBはエネルギーAに働きかけて、間接的に物質エネルギーに作用し、原子を形成するのです。

集まった素粒子が、勝手気ままに反応しあう中で、原子核と同じものを、形成する瞬間があります。

すると、その一瞬だけエネルギーAの状態は、エネルギーBに限りなく近づきます。
そして、AとBのエネルギーはリンクするのです。

素粒子が反応し合って、新たな素粒子が生まれても、それは不安定なまま、すぐに別の形態に変わります。

しかし、原子核の形ができた瞬間だけ、エネルギーBの力が作用して、近くにあった電子が引き寄せられ、原子が完成するのです。

同様に、エネルギーCは原子同士が作用し合って、分子を形成するように、働きかけます。

そして、有機物質が集まって、細胞の乗り物を形成すると、エネルギーDが働きかけることができるようになり、細胞の乗り物は、本物の細胞へと変わって行くのです。

エネルギーDはエネルギーCに働きかけ、エネルギーCはエネルギーBに働きかけ、エネルギーBはエネルギーAに働きかけます。

そして、エネルギーAは物質エネルギーに働きかけます。

こう考えると、物質エネルギーもある種の生命エネルギーだと、解釈した方がわかりやすいですね。

私はエネルギーAを、最もシンプルな生命エネルギーとしましたが、実は物質エネルギーこそが、最もシンプルな生命エネルギーなのでしょう。

人は物質と心を分けて考えますが、物質もまた、一種の精神エネルギーであり、宇宙の心の一部なのです。

宇宙に存在しているのは、精神エネルギーのみであり、宇宙とは一つの大きな心なのです。

そして、宇宙の心の一部である私たちは、宇宙の心をいろいろな角度から、探査していると言えるでしょう。

つまり、生命の起源を考えるならば、それは宇宙が生まれた時とするのが、わかりやすいかも知れません。

しかし、宇宙の誕生という時点が、あったとするならば、生命とは無から突然生じた、ということになってしまいます。

無というのは、何も存在しないことを言います。

何も存在しない所から、何かが生まれることは有り得ません。
それは無という言葉の、定義に反します。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

ビッグバンがあったと仮定する学者も、宇宙が本当の意味での、無から生まれたとは、考えていません。

無に見えるような真空状態があって、そこから宇宙が誕生したと、考えているのです。

宇宙に誕生があったとすれば、宇宙を誕生させるように、働きかける何かがあったはずです。

それも生命エネルギーでしょうから、そう考えると、生命には始まりも終わりもなく、あるのは変化だけ、と言えるのではないでしょうか。

ちなみに、私たちが進化と呼んでいるものは、宇宙に満ちた生命エネルギーの、絡み合いによって生じるものです。

単細胞生物が生まれたのも、そのような生命エネルギーの、絡み合いによるものでしょう。

次回はタイトルを変更して、多細胞生物の話をしようと思います。

生命の起源2

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像 です。

生命の起源と言う時に、イメージされるのは、生物の起源でしょう。

それはすなわち、単細胞生物がどのように発生したのか、ということです。

厳密に言えば、生命と生物は別の意味になります。

生命とは、生物に内在する要素で、生物の活動を支配しているものです。

細胞を例に挙げると、物質的な細胞という構造は、細胞生命の受け皿になるわけです。
人間で言うと、体と心のような関係でしょうか。

しかし科学の世界では、心の類いは物質エネルギーではないので、興味の対象になりません。
生命もしかりです。

そのため、生命とは何ぞやという問いに、科学は答えることができないのです。

代わりに、生物とは何ぞやという形で、生命とは何ぞやという問いに、答えようとします。

生物とは何かという定義には、次の三つの条件が作られています。

 ① 遺伝子情報に基づいて、子孫を残す(自己複製)
 ② 養分を取り込んで活動する(代謝)
 ③ 膜によって、外界から自己を隔離する(細胞膜)

これは要するに、細胞がどのようなものかを、説明しているわけです。

この定義によれば、独立して増殖できないウィルスは、生物の範疇には入りません。

ウィルスを生物だと先に決めていれば、生物の条件は、違うものになっていたでしょう。

ウィルスは生物なのか、生物ではないのか。

それは、生命とは何なのかという問いに、真剣に向き合わなければ、答えられません。

活動する細胞が、最小単位の生物であるというのは、結果ありきの考えです。

 ※Monoar Rahman RonyさんによるPixabayからの画像です。

こんな考えで、生命あるいは生物を定義する以上、ウィルスのような問題が出ることは、避けられません。

また生命というものを、見た目だけで定義することも、問題です。

それでは本当の生命の起源や、生命の進化といったものについて、正しい理解が妨げられてしまうでしょう。

私は心と生命を、同じものととらえています。

心という言葉を使うのか、生命という言葉を用いるのかは、どういう視点で述べるかによって、使い分けています。

心と言えば、そこに意思の存在を、示唆しています。
生命と言う場合は、活動するエネルギー体という感じです。

でも、両者は同じものです。

人間に心があるように、他の生物も心があるように見えます。

それは顕微鏡で見られる、微生物の動きについても、言えることです。

微生物の動きを、単なる化学反応に基づいた動きであると、受け止める研究者もいます。

しかし、それはその研究者の推論であって、事実ではありません。

人間にだけ心があると考えるのは、とても偏った考え方です。

また、脳がなければ、心などあるわけがないと考えるのも、思い込みに過ぎません。

いずれも、人間を基準にした考え方であって、科学に必要な客観性に、欠けていると言えます。

人間に心がある以上、他の生き物にも、それなりの心があると考えるのは、自然なことでしょう。

昔の人は、そのように理解していたでしょう。

現代でも、ペットを飼ったり、植物を育てたりしている人は、ペットや植物に心があることを、理解していると思います。

宇宙に物質エネルギーが満ちているように、精神エネルギーも満ちていると考えるなら、全ての存在に、精神エネルギーの側面が、あると言えるのです。

つまり、ウィルスにも心があり、生きているわけです。

また、土にも水にも空気にも、それぞれ心があって、生きていると考えるなら、生命の起源という言葉は、地球の発生という意味に、なるでしょう。

あるいは銀河系の誕生が、私たちにとっての、生命の起源になるのでしょうか。

それともビッグバンと呼ばれる、宇宙の誕生が生命の起源と、考えることもできるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

話を戻して、生命の起源ではなく、単細胞生物の起源と言うのであれば、それはそれで興味深い話です。

これは、生命の進化の話でもあるわけです。

自然発生した細胞の乗り物に、どのようにして核や、その他の細胞小器官が生まれ、細胞になったのか。

私の考えでは、地球を満たしている精神エネルギー、ここでは生命エネルギーと言った方が、いいかも知れませんね。

地球を満たしている生命エネルギーは、一様ではなく、いくつかの層に、なっているのではないかと、私は考えています。

白い光は、七色の可視光線が、混じり合って一つに重なったものです。

ぱっと見た目には、七つの色が潜んでいるとは、わかりません。
プリズムで分離して、初めて七色がわかるのです。

それと同じように、生命エネルギーも、一つに重なって存在しているのだと、考えられます。

でも実際は、いくつもの波長のエネルギー帯があって、それぞれの波長によって、形成される心が、異なるのではないかと思うのです。

 ※PrawnyさんによるPixabayからの画像です。

有機物質が集まってできた、細胞の乗り物。

これは細胞に似ていても、有機物質の集まりに過ぎません。
そこにある生命エネルギーは、有機物質としてのエネルギーだけです。

細胞としての生命エネルギーは、有機物質のエネルギーよりも、一つ上の層にあると考えて下さい。

細胞の生命エネルギーは、物質世界に具現化するきっかけ、つまり細胞が誕生する条件が整うのを、待っています。

細胞の乗り物ができると、細胞の生命エネルギーは、そこに接触を試みて、状態を確かめます。

まだまだ未完成であれば、それ以上の働きかけはしません。

しかし、ある程度完成に近づいて来ると、細胞の生命エネルギーが、細胞の乗り物に干渉を始めます。

それは細胞の乗り物を構成している、有機物質の生命エネルギーへの、働きかけです。

そうすることで、細胞の乗り物は積極的に、必要な成分を取り込んだり、化学反応を起こして作ったりするようになります。

そうして、やがてごく原始的な微生物が、誕生するのです。
そこには、細胞の心が宿っています。

これが私が考える、単細胞生物の起源です。

現在行われている実験では、細胞の乗り物はとてもシンプルです。

でも、もっと実験が進んで、もう少し複雑な乗り物が、作られるようになれば、きっと単細胞生物が、発生することと思います。

生命の起源1

生命とは、どのように発生したのだろうと、考えたことがある方は、多いと思います。

それについて研究者たちの間でも、多くの議論があるようですが、未だに結論は出ていません。

 ※skeezeさんによるPixabayからの画像 です。

一般的には原始地球に、アミノ酸などの有機物質が蓄積され、やがてこれらが集まって、原始的な細胞が、生まれたと考えられています。

この有機物質が地球で作られたのか、隕石によって、宇宙から運ばれて来たのかは、意見がわかれるところです。

いずれにしても、原始地球に似せた環境下に、有機物質を集めて置いても、新たな生命は生み出されないようです。

ただ、面白い話が二つあります。

一つは、タンパク質などの有機物質が集まった、小さな粒子の話です。

水中にあるこの粒子は、太陽光などのエネルギーを与えられると、周辺にある有機物質を取り込んで、成長すると言います。

その大きさは、直径数十~数百ミクロン程度で、止まるそうです。

この粒子は、大きさは安定しているものの、形は完全な丸ではなく、少しゆがみがあるそうです。

成長したこの粒子に、さらにタンパク質分子が過剰に入り込むと、粒子のゆがみが強くなって、その一部が瘤のように膨らみ、ついには二つに分裂すると言います。

これは細胞ではありませんが、自然の力で小さな粒子が、分裂して増えて行くことができる、ということを証明したものです。

さて、もう一つは、アメーバのように動き回る、油滴の話です。

マイクロメートルサイズの油滴は、表面(水との境界面)上に起こる、部分的な張力の差によって、張力の弱い部分の成分が、張力の強い部分へ引っ張られます。

それによって油滴は、水中をアメーバのように変形しながら、移動するそうです。

そういう油滴が実験によって、作成されているのです。

また、動きながら分裂する油滴も、これまでに作られているそうです。

この油滴は化学物質を取り込んで、内部で化学反応を起こし、新たな化合物を作ることも、できると言います。

また、先に紹介したタンパク質の粒子ですが、その表面に脂質を集めるので、細胞膜のような脂質の膜を、形成するようになるかも、知れないそうです。

 ※A_Different_PerspectiveさんによるPixabayからの画像です。

脂質の膜とは、油の膜ということです。

油膜で包まれた空間は、周辺の空間とは、隔離された状態になります。

その内部環境は、油膜がない時と比べると、極めて安定だと言えます。

また、油膜で包まれていれば、油滴と同じ運動をするようになります。

自然にできる表面の張力差によって、動いている場合、いわゆる意思は、そこにありません。

どの方向へ動くかは、行き当たりばったりになるでしょう。

しかし、意図的に表面の張力差を生み出せたなら、思った方向へ移動することが、できるでしょう。

それは細胞が発生するための、乗り物が提供されたようなものです。

研究者の人たちの努力には、本当に脱帽です。
ここまで生命の秘密が、解明されたことは、本当に素晴らしいと思います。

ただ、この細胞の乗り物が、どうやって細胞になったのか、という点については、まだわかっていません。

この細胞の乗り物の中に、どんどんいろんな物質が取り込まれ、中で化学反応を起こして、新たな物質も作られて、そうするうちに遺伝子も作られて、細胞ができた。

そんな考え方もあるようですが、それでは細胞が、プラモデルのように聞こえます。

人間で言えば、フランケンシュタインの怪物のように、いろんな臓器や身体を寄せ集めれば、一人の人間として活動するのか、ということです。

映画の中では、人造人間は生きて活動します。
しかし、現実には有り得ないことです。

つまり、人は単なるパーツの組み合わせでは、ないということです。

 ※K-factory さんによるイラストAC からの画像です。

それと同じで、細胞もバーツの寄せ集めではありません。
では、何が足りないのでしょうか。

それは恐らく、細胞の意識です。
人にとっての、心と同じです。

今の科学では、細胞に心があるとは、考えていません。
また、無機質には命がないとされています。

その無機質から有機物質が作られ、その有機物質が集まってできるのが、細胞です。

ですから、細胞が何らかの活動をしても、それは単なる反応的な動きであって、心があるとは考えられていないのです。

しかし、その考えが前提である限り、細胞の乗り物と、細胞との間を埋めることは、できないでしょう。


繰り返される悲劇2

 ※Fajrul FalahさんによるPixabayからの画像です。

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。

そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。

この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。

しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。

また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。

それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。

そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。

しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。

黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。

仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。

こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。

多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。

それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。

黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

 ※Wilhan José Gomes wjgomesさんによるPixabayからの画像です。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。

その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。

それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。

でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。

色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。

この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。

そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。

しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。

教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。

ここで言う教養とは、学歴のことではありません。

社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。

本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。

肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。

そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。

景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。

いわゆる八つ当たりであり、いじめです。

それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。

人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。

その知性を活用できなければ、動物と同じです。

 ※Tania Van den BerghenさんによるPixabayからの画像 です。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。

一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。

後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。

そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。

そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。

しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。

どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。

考えれば、わかることだと思います。

何故、同じような事件が繰り返されるのか。

それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。

そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。

病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。

自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。

それが知性を働かせるということです。

そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。

繰り返される悲劇1

 ※Meli1670さんによるPixabayからの画像です。

またもやアメリカで、警察が黒人男性に発砲する事件が起きました。

場所はアメリカ中西部ウィスコンシン州です。

撃たれた男性は、二人の女性の口論を、止めようとしていたそうです。
この二人は、男性の身内だという話もあります。

誰が通報したのかわかりませんが、駆けつけた警察官に、無抵抗の状態の男性は、背後から撃たれました。


その様子を撮影した動画が投稿され、大きな騒ぎになっています。

私もその動画を見ました。
映像では、二人の白人警察官が、銃を構えていました。

しかし、黒人男性はそれを無視するように、乗用車の中へ体を入れようとしました。
乗り込もうとしたのか、何かを取り出そうとしたのか、そこは不明です。

撮影した人の話では、この男性は女性を家に入れた後、自分も続いて家に入ったと言います。

その後、撮影した人が再び外を見ると、この男性が警察官たちと、問答していたそうです。

目を離していた間に、何があったのかは、撮影した人には、わからないとのことです。

何があったのかは、警察でも発表していません。

二人の白人警察官は、黒人男性に銃を向け、威嚇をしていました。

男性は素手で、武器は持っていません。

男性は警察官を無視するように、背中を向けると、歩き出します。

警察官たちは、銃を向けるほど男性のことを、危険視していたのなら、この時点で取り押さえれば、よかったのです。

相手は無防備で、背中を向けているのです。

警察官との距離は、ほとんどありません。
飛びかかろうと思えば、いつでも飛びかかれる距離です。

それなのに警察官たちは、男性が車まで移動するのを、そのままにしていました。

そして男性が車の扉を開けて、中へ体を入れたところで、後ろからシャツをつかみ、そのまま発砲したのです。

撃たれた弾は七発か八発で、全弾命中しました。

気の毒な男性は、命は取り留めたものの、下半身麻痺になる可能性が、高いようです。

ネット記事のコメント欄には、どうして警察に逆らったのかとか、警察官も命懸けだから、発砲は仕方がない、というものが目立ちました。

警察官が七発も八発も撃つのは、やり過ぎとしながらも、発砲した警察官を、擁護する雰囲気があるのが、気になりました。

確かに、銃社会であるアメリカでは、日本と違って、警察官はすぐに発砲します。

だから、事情はどうあれ、警察官に逆らってはいけないというのが、アメリカを知る人たちからの、忠告のようです。

それは、警察官の制止を無視した、黒人男性の方にも非がある、という見方でもあります。

それはある意味、間違いではありません。

しかし、警察官の偏見に嫌気が差していると、制止を無視することも、あると思います。

普段、差別や偏見の脅威にさらされていない人が、今の自分の立場から、黒人男性の行動を非難することは、できないでしょう。

警察官が意味もなく、銃を構えるはずがないと、記事にコメントしている人もいました。

でも実際は、必要もないのに銃を構える場合も、アメリカではあるのではないでしょうか。
特に相手が黒人だった場合、そういう事は、大いに有り得ることだと思います。

映像にはありませんから、警察官たちが男性に銃を向ける前に、何があったのかはわかりません。

でも、仮に男性が警察官たちを、挑発するようなことがあったとしても、この発砲は許されるものではないでしょう。

何故なら、男性は無防備な上に、警察官たちに背を向けているのです。

男性を危険人物だと、判断したのであれば、発砲せずに、後ろから取り押さえることは、できたはずです。

相手は一人、警察官は二人です。

警察官ですから、逮捕術も学んでいるはずです。

それなのに捕まえようとしないで、男性が車に入ろうとするまで、放置していたのです。

その様子に、私はとても違和感を覚えました。

まるで発砲する機会を、待っていたかのようです。

 ※Marcus TrappさんによるPixabayからの画像です。

アメリカでは、市民も銃を持つことができます。

ですから警察官たちは、相手が銃を隠し持っていると、常に疑って行動するのです。

相手が銃を、取り出そうとしたと思えば、警察官は相手を、撃っても構わないのです。

結果的に、取り出そうとしたのが、身分証明書だったとしても、警察官は身の危険を感じたと言えば、それが言い訳にできるのです。

つまり、身の危険を感じたとさえ言えれば、警察官は公然と殺人を行うことが、できるわけです。

もちろん、まともな警察官が、そんな事をするはずがありません。

しかし、偏見と憎しみを持っている警察官であれば、有り得ることです。

事実、それらしい事件が、たまにテレビなどで紹介されています。

今回の事件も、それと同じではないかと、私は考えています。

捕まえようと思えば、いつでも捕まえられるのに、そうしないで、男性を車の所まで行かせたのは、どう見ても不自然です。

捕まえたかったが、捕まえられなかったと言うのなら、あまりにも無能な警察官だと、言わざるを得ません。

男性が車の所へ行くまで、放置していたのに、車に体を入れた時点で、背後からいきなり撃つのは、計画的であったように見えます。

男性を撃ち殺すための、口実作りのために、あえて男性を、取り押さえなかったのでしょう。

男性が車の中に、体を入れたことを、武器を持ち出そうとしたと言えば、正当な発砲になると考えたに、違いありません。

殺す気でなければ、二人してあそこまで銃弾を、撃ち込む必要はないでしょう。

目撃者の話では、発砲する直前に、警察官は男性に、ナイフを放せと叫んだそうです。

しかし実際は、ナイフも拳銃も発見されていません。

つまり、ナイフを放せと叫ぶことによって、発砲が正当な理由であることを、周囲にアピールしたと考えられます。

しかも、車の後部座席には、男性の子供たちが、乗っていたと言います。

目の前で父親が、惨殺されそうになったのです。
子供たちは、どれだけおびえたことでしょう。

警察官のくせに、そんな子供たちの気持ちや安全を、考慮しないなんて考えられません。

きっと黒人の子供など、どうでもいいという思いが、あったのでしょう。

 ※Fajrul FalahさんによるPixabayからの画像です。

一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。

そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。

この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。

しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。

また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。

それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。

そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。

しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。

黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。

仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。

こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。

多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。

それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。

黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。

 ※Wilhan José Gomes wjgomesさんによるPixabayからの画像です。

それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。

その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。

それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。

でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。

色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。

この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。

そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。

しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。

教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。

ここで言う教養とは、学歴のことではありません。

社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。

本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。

肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。

そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。

景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。

いわゆる八つ当たりであり、いじめです。

それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。

人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。

その知性を活用できなければ、動物と同じです。

 ※Tania Van den BerghenさんによるPixabayからの画像 です。

今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。

一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。

後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。

そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。

そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。

しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。

どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。

考えれば、わかることだと思います。

何故、同じような事件が繰り返されるのか。

それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。

そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。

病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。

自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。

それが知性を働かせるということです。

そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。

どうすれば幸せに その2

 ※sipaさんによるPixabayからの画像です。

たくさんの人に注目してもらいたい。

こんな風に思う人は、少なくないでしょう。
それは悪いことではありません。

でも、そこに夢中になってしまうと、いつの間にか、注目してもらうことが、目的になってしまいます。

そうなると、本当に自分がやりたい事が、わからなくなるかも知れません。


人に迷惑をかけるような映像や、危険を顧みないような映像を、ネットに投稿する人。

こういう人たちは、いかにも注目を集めることだけが、目的のようですね。

そういう事をしないと、誰も振り向いてくれないと、感じているのでしょう。

こういう人たちは、普段自分たちの居場所が、ないのだと思います。

この人たちに欠けているのは、自信です。

それと、その自信を裏づけてくれる、人々とのつながりです。

人は、目立つ必要はありません。

目立ってしまう人は、結果的に目立つだけです。

目立つか目立たないかで、その人の存在価値に、差が出るわけではないのです。

 ※Aline DasselさんによるPixabayからの画像です。

自分に自信がない人は、周囲から認められていないと、感じてしまうものです。

周囲の人たちが、悪意を持った人ばかりなら、その場から離れるのが、得策でしょう。

でも、そうでないのなら、知らず知らずのうちに、自分で壁を造っているのかも知れません。

顔を合わせた人には、必ず挨拶をしましょう。

些細なことにも喜びを見つけ、ちょっとした事にでも、感謝できるように心掛けましょう。

興味がないと思うような事でも、初めから拒んだりしてはだめです。

相手を思いやる気持ちで、話を聞くようにします。

何か共感できるところがあれば、遠慮なく共感の意思を示すのです。

そうしていれば、人々は自然に認めてくれるようになります。

これまで以上に、会話がはずむようになり、気がつけば、そこに自分の居場所が、できているでしょう。

 ※Tú AnhさんによるPixabayからの画像です。

結婚に幸せを求める人は、多いでしょうね。

でも、結婚に何を期待しているかは、人によって様々です。

夫あるいは妻に愛され、子供たちに囲まれる。

それが幸せというイメージを、持っていたのに、いざ結婚してみると、全然違う。

互いに口から出る言葉は、愚痴ばかり。

子供たちはやかましいし、手間ばかりかかってしまう。

自分がやりたいことなんか、全然できずにストレスだらけ。

そんな風に感じる人が、少なくないような気がします。

だけど、望んでいたものを、手に入れたはずなのに、何か変ですね。

結婚なんて初めてだから、こんなものとは思いもしなかった。

そんな言い分が、聞こえて来そうです。

だけど、それは覚悟が、足らなかったのではないかと、私は思います。

 ※Karen WarfelさんによるPixabayからの画像です。

どんなに好きになった人であっても、生まれ育ちが違う他人です。

その人の全てを、知っているはずがありません。

ずっと一緒に暮らす事で、相手の知らない部分を、知るようになるのは、当然でしょう。

相手の家族や知人の関係で、思いがけない状況になる事も、想定しないといけません。

それを想定外だと考えるのは、結婚を軽く見ていたとしか思えません。

相手に何かを期待して、期待どおりに行かなければ、落胆する事になるでしょう。

でも、相手は他人ですから、期待どおりに行かないのは、当たり前なのです。

 ※Ayelet SternさんによるPixabayからの画像です。

一人で暮らしていても、別に何の不自由もないし、何の不満もない。
日々の暮らしに必要な作業を、少しも面倒だとは思わない。

そんな人が、誰かと結婚したいと思う理由は、次のようなものでしょう。

その人が好きだから。
その人と、ずっと一緒にいたいから。
その人のために、何かをしてあげたいから。

相手に対する期待はありません。

だから、何かをしてもらうと感謝します。
感激します。

何かをしてもらうのが、当たり前という発想はないのです。

こんな気持ちで結婚できた人は、幸せだと思います。

相手に何かを求める結婚では、幸せをつかむことはできません。

相手からいろいろ期待されて、それに合わさなければならないと、考えてみて下さい。

本来の自分とは別の自分を、ずっと装い続けなければならないのです。

どんなに頑張っても、期待に添えない事もあるでしょう。
それは仕方がない事です。

それなのに、期待外れだったと文句を言われたり、落胆されたら、どんな気持ちになりますか。

 ※mohamed HassanさんによるPixabayからの画像です。

相手に期待するというのは、そういう事なのです。

そうは言っても、ちょっとした事を頼んだり、頼まれたりという事はあるでしょう。

あるいは、相手が何かで困っていて、誰かの手助けが、必要な場合もあります。

そんな時に、喜んで動いてあげられたら、とても喜ばれます。

自分が逆の立場であれば、感謝感謝です。

また自分とは異なる、相手の価値観を、何だよそれ、とは言わないで、いつも好奇心を持って、受け入れるようにするといいでしょう。

自分の価値観も保ちつつ、相手の価値観も受け入れるという、心の広さが大切なのです。

互いに相手を尊重し、思いやりと感謝の気持ちを忘れない事。

それが幸せな結婚の条件です。

そのためには、相手に負担をかけないような、人間としての自立が必要です。

 ※Jill WellingtonさんによるPixabayからの画像です。

幸せを見つけるというのは、生きる喜びを見出すという事なのです。

お金があっても、友だちがいても、それだけでは幸せには、結びつきません。

注目を浴びても、本当に認められているのでなければ、幸せは訪れません。

つまり、本当の心のつながりが、得られなければ、幸せを感じられないのです。

結婚の場合、常に相手がそばにいるわけです。

互いの心のつながりが、感じられなければ、一緒にいる事が、苦痛になるでしょう。

結婚に限った事ではありませんが、相手を大切に思えなければ、そこに幸せはありません。

相手を思いやるためには、自立した人間である事が必要です。

何にしても、普段から気持ちにゆとりを持ち、小さな事に喜びを見つけ、他人の幸せを喜べるようになる。

それができるようであれば、あなたは幸せなのです。

どうすれば幸せに その1

 ※ThePixelmanさんによるPixabayからの画像です。

幸せになりたい。

そう思わない人は、いないでしょう。

でも、それは裏を返せば、今の自分は幸せではないと、宣言しているようなものです。

では、どうすれば幸せになれるのでしょうか。

お金があれば、幸せになれるのでしょうか。
友だちの数が多ければ、いいのでしょうか。

世間から注目されるのが、幸せなのでしょうか。
結婚して家庭を築くことが、幸せにつながるのでしょうか。

 ※MaccabeeさんによるPixabayからの画像です。

お金で何でも手に入ると、思いたくなるような世の中です。

また、お金がないと何も手に入らないと、思えてしまう世の中でもあります。

でも、お金で買えないものあるのです。

命は買えませんし、能力も買えません。
愛情だって買えません。

お金がないと、何も手に入らない、というのも誤解です。

昔の人は、必要な物は何でも、自分たちで作っていました。

 ※clasicoさんによる写真ACからの画像です。

生活道具も作っていましたし、味噌や醤油も作っていました。

着物は自分で縫っていましたし、家だって、村の人々みんなで建てていました。

確かに、今はお金の流通を基本とした、社会になっています。
お金を使わないと、手に入らない物もあるでしょう。

でも、自分の手で作れる物も、いくらでもあると思います。

また実際に、自分で工夫して作った物を、生活に利用する人もいるのです。

お金があれば、幸せになれると考える人。
それはお金が万能だと、信じている人でしょう。

お金があることは、決して悪いことではありません。

しかし、お金は何かを手に入れるための、一つの手段に過ぎません。

他の手段もありますし、お金では得られない物もあるのです。

幸せを求める人は、お金を必要以上に、重視しない方がいいと思います。

お金にばかり目を向けていると、目の前に幸せがあっても、気がつかないことがあります。

自分が本当に求めているものは、何なのか。

それを、自分に問いかけてみるといいでしょう。
必ずそこに、幸せが待っています。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

友だちの数が多ければ、幸せだと考える人もいるでしょう。

それは友だちを、自分が困った時に支えになってくれる人と、定義づけているのかも知れません。

でも、本当に支えになってくれる友だちというものは、それほど多いとは私は思いません。

それに自分の人生を、自分の足で歩んでいる人は、困った時にも自分の力で、何とかしようと考えるものです。

そんな時に、友だちが手を差し伸べてくれることは、あるでしょう。

でも、自分の人生を自分で歩んでいる人は、初めから友だちを、当てにすることはないのです。

つまり、友だちの数が多くないと、不安に感じてしまう人は、自分の人生を自分の足で、歩けていないということです。

それは泳ぎ方を知らない人が、プールや海に行き、自分が溺れた時に助けてくれる人が、周りにどれだけいるかを、確かめているようなものです。

泳ぎ方を覚えてしまえばいいのですが、なかなか覚えようとしない人は、いるようです。

泳いで溺れることを心配するよりも、泳がなくても周りにたくさん人がいる方が、安心だと思うのでしょうね。

でも、水の中に入るのであれば、泳ぎは必要不可欠なものです。

じっとしていても、喜びは現れてはくれません。

 ※holzijueさんによるPixabayからの画像です。

友だちの数を気にしてしまう人は、自分が自分の人生を、歩んでいないということを、まず認識して下さい。

認識したら、今度は怖がらずに、自分の思ったとおりの道を、一歩ずつ歩み始めて下さい。

失敗を恐れる必要はありません。
失敗は成功への道しるべです。

他人の目も気にすることはありません。
その人の人生ではなく、自分の人生を歩むのですから。

大変な事や面倒な事も、必ずあります。

責任ということを、考えねばならないこともあります。

でも、それらと引き換えに、自由を手に入れることができるのです。

どんなに大変であっても、自分がそれで構わないと、決めれば問題ありません。

あとは、自分が好きなようにできる、喜びがあなたのものになるのです。

パソコンの故障

 ※EdarさんによるPixabayからの画像です。

長らく使っていました、デスクトップのパソコンが、そろそろ寿命を迎えそうな様子です。

この何年か立ち上がりに、随分時間がかかるように、なっていました。

それでも、待っていれば起動するので、気にせずに使っていたのです。

しかし、時々プラグラムが途中で止まったかのように、動作が遅くなることが、よくありました。

Windowsや ウィルス対策ソフトが、CPUやメモリーを占領するために、他のプログラムの動きが、悪くなっているのだろうかとも、考えました。

タスクマネージャーで調べてみると、CPUも特に活発に動いている様子もないし、メモリーも余裕がありました。

それでも、ハードディスクが作動しているランプが、ずっと点灯しっ放しなので、どうしたことなのかと、ずっと不思議に思っていました。

でも、その理由が今回の不具合で、ようやく理解できました。

パソコンを立ち上げた時に、パソコンが起動すると、普段はパソコンメーカーのロゴマークが、モニター画面に出て来ます。

でも、今回はロゴマークが表れず、タイプライターで打ち出したような、意味不明のアルファベットや、数字を並べた文のようなものが、ずらずらっと出て来て、動かなくなったのです。

意味がわからないので、このブログを書くのに使っている、ノートパソコンを使い、インターネットで状況を調べてみました。

すると、Windowsを立ち上げるための、Biosというものを、初期化する必要があるとのこと。

しかも、それでも上手く行かない場合は、パソコンの機械が Windowsプログラムが入っている、ハードディスクにアクセス出来ていないと、いうことらしいのです。

つまり、もう機械がだめだってことですね。

それで、書かれてある指示に従って、恐る恐る Biosを初期化してみると、今度はロゴマークが出て来ました。

それで、ほっとしていたのですが、立ち上がったはずのデスクトップ画面にある、たくさんのアイコンが真っ白のままです。

しばらく待ってみたのですが、変化がないので、再起動。

今度はアイコンも元通りになったので、やれやれでした。

しかし、何をするにしても反応がとても鈍く、これはやはり、ハードディスクとのやり取りが、順調に行っていないのだと判断しました。

古い保証書を探し出して調べてみると、このパソコンを購入したのは、平成23年6月でした。
まるまる9年が過ぎて、10年目に入ったところだったのです。

そもそも、このパソコンは Windows7でして、去年の暮れにマイクロソフトのサポートが、終了した代物です。

インターネットに接続するのをやめて、ワープロ専用機として使っていたのですけど、やっぱり無理だったようです。

今はノートパソコンがあるので、特に困るわけではないのですが、このノートパソコンも、いつ壊れるかわかりません。

それに画面が小さいのは、若くない私には、ちょっと見づらくもあるのです。

ですから、いずれまたデスクトップのパソコンを、購入しようと思うのですが、資金がないので、それはもうしばらく、先のことになりそうです。

まあ、それはいいとして、このデスクトップパソコンの中には、家族の写真やら、自分で作った文書や、いろいろ集めた資料が、たくさん詰め込まれているのです。

パソコンが完全に、おシャカになってしまう前に、それらのデータを、外付けハードディスクへ、移しておかねばなりません。

それで昨日から、かかりきりでやっているのですが、動作が非常に遅いので、本来なら1、2分でできてしまうことでも、数十分かかってしまうのです。

大変だから、寝ている間に、勝手にやっといてもらおうと思ったのですが、今朝起きて見ると、動きが止まっていて、画面にメッセージが出ています。

「このフォルダーはほかの人と共有されています」
「このフォルダーを移動すると共有は解除されます」

それで、このまま続行するのか、キャンセルするのかと、こちらに尋ねているわけです。

データの移動作業は、ほとんどできていません。

がっくりしながら、続行ボタンをポチッと押しました。

そう言えば、昨日の作業をしている時も、同じことを求められたなと反省です。

 ※きのこさんによるイラストACからの画像です。

今もこのブログを書きながら、横で時々、この続行ボタンを押しています。

何だか動きがおかしくなって来たなと、感じ始めた時に、必要な作業を済ませておくこと。

自分が体調を崩した時の対処と、同じことでした。

ところで、データを移される外付けハードディスクの、ピコピコ点灯するランプを見ていて、ふと思いました。

この機械の中に、記録されている磁気のデータは、それだけを見ると、0か1なのだなと。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

一つ一つの情報は、0か1のどちらかだけです。

このデータが物を言えたとすると、「ぼくは 0だぞ」「あたしは 1よ」ということしか、言えないでしょう。

それ以外のことは、何もわからないのです。

それなのに、「0のぼく」と、「1のあたし」がたくさん並ぶことで、様々なデータやプログラムが、作られるのです。

しかし、そのデータやプログラムも、自分たちがモニター画面に出て来る、文字や映像、スピーカーの音などを、作っているとは、露ほども知らないのです。

面白いですよね。

モニターで動き回っているキャラクターや、映像などは、自分たちがプログラムとデータの合作だなんて、これっぽっちも考えないでしょう。

ましてや、0と1が並んだだけだなんて、理解の範囲を超えているでしょう。

これと同じことが、私たちにも言えるのですね。

私たちの体も、様々な臓器や筋肉や骨が、皮膚にくるまれているのですが、誰もそんなことを考えながら、生きてはいません。

その臓器なども、小さな細胞でできていて、これらの細胞が、私たちが起きていようと寝ていようと、活動を続けてくれるので、私たちは生きていけるのです。

でも、細胞のことなど、臓器以上に思い浮かべることなど、ありません。

その細胞も、目に見えないほど小さな、原子や分子の集まりです。

そして、原子や分子は、さらに小さな素粒子の集まりなのです。

 ※XpicsさんによるPixabayからの画像です。

今の科学では素粒子よりも、小さなエネルギー単位は、設定されていません。

その素粒子になると、私たちが当たり前に考えている、形というものがないのです。

形というものは、電磁的な力によって、構成されています。

電磁的な力で、原子が引き合ったり、反発し合ったりして、物の形や境界が、形成されるのです。

でも、電磁的な力を働かせる元である、素粒子には形がありません。

つまり形というものは、本質を言えば見せかけであって、本当に存在しているのは、素粒子が集まった、エネルギー体ということなのです。

一種の幽霊みたいなものでしょうか。

幽霊との違いは、幽霊の体を構成する力が、私たちの体を構成する電磁力とは、別の力だということです。

あなたの体も、あなたの周囲に存在している物も、全てがまやかしで、本当はみんな、ただのエネルギー体だと考えると、不思議な気持ちになりませんか。

それは私たちの心にも言えると、私は思うのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

私たちの心は、知性、感情、感覚、記憶によって、構成されています。

あるいは、そういうもので構成された人格が、いくつも集まってできているとも、考えられます。

普段は全てが、一つになっていますから、特に分けて考えることもないでしょう。

でも、たとえば重なっている人格が、分離したような感じになると、精神的な疾患と診断されます。

知性、感情、感覚、記憶、これらの要素が、どれだけ深く、その人物の構成に関わっているかによって、その人の個性や性格といったものが、独自のものになるのでしょう。

あなたが別の人の記憶を、自らの中に取り込んだとしましょう。

すると、あなたは今の自分という、認識を維持しながら、他人の経験を自分の経験として、受け止めることになるのです。

あなたがコンピューターのような知性に、アクセスできたならば、いわゆる数学的天才になります。

人生がつまらないと思っていた人が、何かをきっかけにして、豊かな人生を送るようになったとします。

きっと、その人は感情の要素が、とても豊かになっているはずです。

あなたがコウモリやイルカのように、超音波を聞き取れるようになったり、渡り鳥のように地球の磁気を、感じられるようになったら、どんな感じになるでしょうか。

人の想いを、直接感じられるようになったなら、世界はどんな風になると思いますか。

いろいろ考えると、面白いですね。

 ※Enrique MeseguerさんによるPixabayからの画像です。

知性、感情、感覚、記憶。

こういったものも、恐らくは素粒子のような、小さなエネルギー単位が、集まってできているのです。

一方で、私たちの一人一人の意識が、素粒子のように、もっと大きな何かを、構成している可能性があります。

一番身近な構成物は、集団の意識というものです。

家族、民族、宗教、国、性、年代、いろんな要素が、集団を作るきっかけになります。

誰か一人が孤立する時、目には見えませんが、集団の意識と、そこに入り込めない一つの意識という、エネルギー体の対峙があるのでしょう。

人々が対立し合う時、あるいは、それぞれが自分のことばかり考えている時、そこにあるエネルギー体はバラバラで、一つにまとまることはありません。

一つ一つのエネルギー体は小さいですから、大したことはできません。

しかし、協力し合ったり、互いを思いやったりするようになると、バラバラだったエネルギー体が、一つに集まって大きな集合意識を、形成することになります。

大きなエネルギー体は、パワーがありますから、何をするにも、小さなエネルギーより有利です。

この場合、一人一人は自分で考えて行動している、という自覚を持っています。

しかし、集合意識の立場で考えると、一人一人は自分の分身です。

全員が一つの目的を持って、動いているという認識を、集合意識は持つでしょう。

この集合意識が国や民族、宗教などを超えて、地球全体に広がる、全人類の集合意識となったと考えてみて下さい。

全員が全人類の集合意識の、分身なのです。
そこに敵は、一人も存在しません。

 ※Gerd AltmannにさんよるPixabayからの画像です。

個性は維持されています。
しかし、個性を理由にした対立や、イジメなどは起こりません。

個性は可能性として喜ばれ、多様な個性によるハーモニーが、美しく感動的な振動を、全ての人の心に広げることでしょう。

一人の悩みは、全員の悩みです。
一人の喜びは、全員の喜びです。

どんなに遠方に離れていても、人々の心は、一つにつながっているのです。

そのつながり、そのハーモニーは、肉体を持っていようと、肉体から離れていようと、関係がありません。

心のつながりが、感じられるようになったなら、今の世界でいう生死の問題は、単なる変化として、とらえられるようになるでしょう。

そして、全人類の集合意識が地球を越えて、他の星の集合意識と交流し、やがて一つになって行くとすれば、こんなに楽しく素晴らしいことは、ないのではないでしょうか。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

つい、ブログを書くのに、夢中になってしまいました。

デスクトップのパソコンのモニターが、続行するかどうかと尋ねています。

幽霊を科学する2

 ※Andreas LischkaさんによるPixabayからの画像です。

幽霊になるのが、無念の死を迎えた人だけであれば、幽霊はその人自身ではない、という考え方もあります。

死んだ人の心と言うより、その人が抱いていた強い思いが、念として残っていると、理解するのです。

要するに、死んだ人の心は消え去るけれど、その人の恨みや悲しみなどの、強いマイナスの思念の渦だけが、しばらくは幽霊という形で、残り続けるというわけです。

しかし、強い思念というものも、物質エネルギーではありません。

強い思念が残るというのであれば、結局は物質エネルギーとは別のエネルギーを、想定する必要が出て来ます。

精神が属するエネルギーを想定するのであれば、人の心が肉体の死後に、残っていても問題はありません。

それでも、肉体は死後に崩壊するから、心も死後に崩壊するだろうと、考えたくなるかも知れません。

確かに、それも一つの考え方だと思います。

しかし、それは推論に過ぎませんし、死後も心が、どこかに存在しているという、可能性を否定できるものではありません。

そのどこかを、昔の人はあの世という言葉で、表現していたのでしょう。

あの世があるのであれば、世界を考える時に、この世とあの世の両方を考慮する、必要が出て来ます。

また、あの世があるとなれば、当然、この世とあの世の間で、連絡を取り合う方法が、あるのではないかと考える人が、出て来るでしょう。

 ※edsavi30さんによるPixabayからの画像です。

「おじいちゃん、そっちの世界では、何をして暮らしているの?」
「生きていた頃と、同じだよ。違うのは、誰かに会いたいって思ったら、その相手が目の前にいるってことかな」

こんな風に亡くなった家族と、いつでも気軽に会話ができれば、素敵だと思いませんか。

テレビ電話のように、モニター画面があれば、遠方で離れて暮らしているのと、何の変わりもないですよね。

未解決の殺人事件も、死んだ本人から話が聞ければ、解決できるかも知れません。

誰かを殺した人は、自分が死んであの世へ行くことを、とても恐れるでしょう。

死後の世界にいる人から、あの世の様子や、この世に生まれて来ることの意味などを、教えてもらえたら、どうでしょうか。

きっと人々の価値観に、革命が起こるに違いありません。

どうせ死んだらおしまいだから、生きている間にいい思いをしよう、という考えは、成り立たなくなってしまいます。

 ※TumisuさんによるPixabayからの画像です。

今の世の中は、科学技術ばかりが大きくなり、人としての心が未成熟な、いびつな社会です。

しかし、あの世の発見により、科学も社会も新たなステージを、迎えることになるでしょう。

新たな時代を迎えた社会は、これまでと違って、精神と科学のバランスが取れた、素晴らしい世の中になるに違いありません。

でも、そのためには幽霊の存在を認め、幽霊について研究しなければなりません。

ただ、幽霊とは、元々生きた人間だったのです。

穏やかな死を迎えた人が、研究に協力するということで、あの世から幽霊となって、現れてくれるのであれば、問題はありません。

しかし、無念の死を迎えて、幽霊になった人たちは、死んだ後も苦しみ続けていると、考えられます。

そういう方たちを研究対象にする場合、その苦しみや無念な思いに対する、配慮が必要なことは、言うまでもありません。

肉体があろうがなかろうが、みんな私たちと同じ人間なのです。

そうは言っても、実際に幽霊を研究しようという、学者はほとんどいないでしょう。

科学的な結論を待っていては、人々が抱えている悩みや、社会の問題を解決することができません。

科学的に研究すれば、必ず素晴らしい成果に、結びつくと思います。

でも一般の人々は、研究を学者任せにしないで、幽霊の存在が意味するところを、自分たちで考えるべきだと思います。

科学的な立証がなくても、自分が納得できれば、人生を生きて行くための指標を、持つことができます。

それは豊かで深みのある人生を、約束してくれるものなのです。

 ※Daniel RecheさんによるPixabayからの画像です。