繰り返される悲劇1
またもやアメリカで、警察が黒人男性に発砲する事件が起きました。
場所はアメリカ中西部ウィスコンシン州です。
撃たれた男性は、二人の女性の口論を、止めようとしていたそうです。
この二人は、男性の身内だという話もあります。
誰が通報したのかわかりませんが、駆けつけた警察官に、無抵抗の状態の男性は、背後から撃たれました。
その様子を撮影した動画が投稿され、大きな騒ぎになっています。
私もその動画を見ました。
映像では、二人の白人警察官が、銃を構えていました。
しかし、黒人男性はそれを無視するように、乗用車の中へ体を入れようとしました。
乗り込もうとしたのか、何かを取り出そうとしたのか、そこは不明です。
撮影した人の話では、この男性は女性を家に入れた後、自分も続いて家に入ったと言います。
その後、撮影した人が再び外を見ると、この男性が警察官たちと、問答していたそうです。
目を離していた間に、何があったのかは、撮影した人には、わからないとのことです。
何があったのかは、警察でも発表していません。
二人の白人警察官は、黒人男性に銃を向け、威嚇をしていました。
男性は素手で、武器は持っていません。
男性は警察官を無視するように、背中を向けると、歩き出します。
警察官たちは、銃を向けるほど男性のことを、危険視していたのなら、この時点で取り押さえれば、よかったのです。
相手は無防備で、背中を向けているのです。
警察官との距離は、ほとんどありません。
飛びかかろうと思えば、いつでも飛びかかれる距離です。
それなのに警察官たちは、男性が車まで移動するのを、そのままにしていました。
そして男性が車の扉を開けて、中へ体を入れたところで、後ろからシャツをつかみ、そのまま発砲したのです。
撃たれた弾は七発か八発で、全弾命中しました。
気の毒な男性は、命は取り留めたものの、下半身麻痺になる可能性が、高いようです。
ネット記事のコメント欄には、どうして警察に逆らったのかとか、警察官も命懸けだから、発砲は仕方がない、というものが目立ちました。
警察官が七発も八発も撃つのは、やり過ぎとしながらも、発砲した警察官を、擁護する雰囲気があるのが、気になりました。
確かに、銃社会であるアメリカでは、日本と違って、警察官はすぐに発砲します。
だから、事情はどうあれ、警察官に逆らってはいけないというのが、アメリカを知る人たちからの、忠告のようです。
それは、警察官の制止を無視した、黒人男性の方にも非がある、という見方でもあります。
それはある意味、間違いではありません。
しかし、警察官の偏見に嫌気が差していると、制止を無視することも、あると思います。
普段、差別や偏見の脅威にさらされていない人が、今の自分の立場から、黒人男性の行動を非難することは、できないでしょう。
警察官が意味もなく、銃を構えるはずがないと、記事にコメントしている人もいました。
でも実際は、必要もないのに銃を構える場合も、アメリカではあるのではないでしょうか。
特に相手が黒人だった場合、そういう事は、大いに有り得ることだと思います。
映像にはありませんから、警察官たちが男性に銃を向ける前に、何があったのかはわかりません。
でも、仮に男性が警察官たちを、挑発するようなことがあったとしても、この発砲は許されるものではないでしょう。
何故なら、男性は無防備な上に、警察官たちに背を向けているのです。
男性を危険人物だと、判断したのであれば、発砲せずに、後ろから取り押さえることは、できたはずです。
相手は一人、警察官は二人です。
警察官ですから、逮捕術も学んでいるはずです。
それなのに捕まえようとしないで、男性が車に入ろうとするまで、放置していたのです。
その様子に、私はとても違和感を覚えました。
まるで発砲する機会を、待っていたかのようです。
アメリカでは、市民も銃を持つことができます。
ですから警察官たちは、相手が銃を隠し持っていると、常に疑って行動するのです。
相手が銃を、取り出そうとしたと思えば、警察官は相手を、撃っても構わないのです。
結果的に、取り出そうとしたのが、身分証明書だったとしても、警察官は身の危険を感じたと言えば、それが言い訳にできるのです。
つまり、身の危険を感じたとさえ言えれば、警察官は公然と殺人を行うことが、できるわけです。
もちろん、まともな警察官が、そんな事をするはずがありません。
しかし、偏見と憎しみを持っている警察官であれば、有り得ることです。
事実、それらしい事件が、たまにテレビなどで紹介されています。
今回の事件も、それと同じではないかと、私は考えています。
捕まえようと思えば、いつでも捕まえられるのに、そうしないで、男性を車の所まで行かせたのは、どう見ても不自然です。
捕まえたかったが、捕まえられなかったと言うのなら、あまりにも無能な警察官だと、言わざるを得ません。
男性が車の所へ行くまで、放置していたのに、車に体を入れた時点で、背後からいきなり撃つのは、計画的であったように見えます。
男性を撃ち殺すための、口実作りのために、あえて男性を、取り押さえなかったのでしょう。
男性が車の中に、体を入れたことを、武器を持ち出そうとしたと言えば、正当な発砲になると考えたに、違いありません。
殺す気でなければ、二人してあそこまで銃弾を、撃ち込む必要はないでしょう。
目撃者の話では、発砲する直前に、警察官は男性に、ナイフを放せと叫んだそうです。
しかし実際は、ナイフも拳銃も発見されていません。
つまり、ナイフを放せと叫ぶことによって、発砲が正当な理由であることを、周囲にアピールしたと考えられます。
しかも、車の後部座席には、男性の子供たちが、乗っていたと言います。
目の前で父親が、惨殺されそうになったのです。
子供たちは、どれだけおびえたことでしょう。
警察官のくせに、そんな子供たちの気持ちや安全を、考慮しないなんて考えられません。
きっと黒人の子供など、どうでもいいという思いが、あったのでしょう。
一方で、こういう事件が起こると、すぐに暴動を起こす、愚かな人たちがいます。
そういう事をすると、黒人に偏見を持つ警察官の立場を、守ることになるのにです。
この人たちは、デモによって非暴力的に抗議する人々の、足を引っ張っているわけです。
しかし、彼らはそんな事には、お構いなしです。
また、黒人の犯罪率が高いというのも、事実でしょう。
それは黒人を憎む警察官に、言い分を与えることになってしまいます。
そういう状況を見ていると、アメリカ社会とは、無関係の立場にいる人は、どっちもどっちだと思うかも知れません。
しかし、元を質せば、白人社会が悪いのだと、私は思います。
黒人犯罪が多いのも、暴動を起こすような、愚かな人が出て来るのも、白人中心の社会のせいでしょう。
仕事がないから、貧困な暮らしになる。
貧困だから、優秀な学校には入れない。
学歴がないから、高収入の仕事には就けない。
収入が少ないから、貧困から抜け出せない。
こんな環境に置かれては、肌の色や人種の違いに関係なく、誰でも世の中が嫌になり、犯罪を起こす者も増えるでしょう。
多くの黒人市民が、このような環境に置かれているのは、白人中心の社会だからです。
それでも、一部の黒人は地位やお金を、手に入れることに成功しています。
黒人を差別しない白人も、今はかなり多いと思います。
それでも、黒人への偏見を、持ち続けている白人も、やはり多いと言わざるを得ません。
その根底には、黒人への不安や、恐れがあるのでしょう。
それは犯罪率が高いことへの、恐れかも知れません。
でも、それだけでなく、社会で活躍する黒人が増えることで、白人の居場所が狭められると、心配しているような気がします。
色が白い者が優秀だ、という観点に立てば、色が黒い者は、その対極にあるわけです。
この時点で、すでに黒人への偏見が、成立しています。
そこに犯罪の可能性や、能力への恐れが加わって、黒人を排除したいという気持ちに、なるのだと思います。
しかし、黒人への偏見を持つ人は、教養が低い者だけでしょう。
教養の高い者は、肌の色に関係なく、差別はしません。
ここで言う教養とは、学歴のことではありません。
社会的に成功して、たくさんのお金や地位、名誉を手にした人のことでもありません。
本当に教養がある人というのは、人間はみんな同じだと、理解できる人です。
肌の色や習慣、宗教、言語、民族、そういうものが違っても、みんな、同じ人間だと言い切るためには、それだけの知識と経験が必要です。
そうでなければ、あいつたちは人間じゃないとか、連中は動物以下だという言葉を、権威がある人に言われた時に、そうなのかなと思ってしまうでしょう。
景気が悪いとか、災害に見舞われたとかで、いらいらしている時、教養のない人は、うっぷんを晴らすために、自分より下に設定した相手を、徹底的に攻撃するのです。
いわゆる八つ当たりであり、いじめです。
それは未熟な者がすることであり、人間の姿はしていても、中身は動物と同じです。
人間には動物たちとは、比べ物にならないほどの、知性があります。
その知性を活用できなければ、動物と同じです。
今、世界中で知性を働かせ、本来の人間の姿になろうとしている人が、増えて来ています。
一方で、知性を捨てて動物的な生き方を、選んでいる人も多くいます。
後者は自分の地位を守るため、まさに動物的に前者を攻撃し、時には命さえ奪おうとします。
そのことに胸が痛まないのは、彼らが人間の姿をした、動物である証拠です。
そして、これまでの人類社会は、動物的な者たちが支配して来ました。
しかし、これからは人間が本当の知性を、花開かせる時代なのです。
どちらが社会を築くのに、ふさわしいか。
どちらの社会が、人々にとって暮らしやすいか。
どちらの社会が、平和で安全で、愛情に満ちているのか。
考えれば、わかることだと思います。
何故、同じような事件が繰り返されるのか。
それは社会に原因があり、社会をコントロールしている、支配者に問題があるのです。
そして、人々が本当の原因に気づくまで、似たような事件は続くのです。
病気でもないのに、自分の人生、自分の暮らしを、誰かに委ねるのは、知性を働かせているとは言えません。
自分で考え、自分で決定し、自ら行動する。
それが知性を働かせるということです。
そして、それこそが新しい社会で、求められるものなのです。