生物の進化
単細胞生物に続いて、多細胞生物が出現したことは、進化の過程において、大きな謎とされて来ました。
多細胞生物とは、動物や植物、魚や昆虫など、いわゆる生き物のことです。
どの生き物も、一つの細胞が分裂して増殖してできた、数え切れないほどの細胞の集合体です。
単細胞生物も分裂して増殖しますが、一つ一つの細胞は自由に動き回ります。
単細胞生物はどんなに数が増えても、集まって全体で何かをすることは、基本的にありません。
一方、多細胞生物の場合、それぞれの細胞たちは、全体で一つの個体を形成します。
人間で言えば、一人の体を作っているわけです。
体を作っている細胞には、様々な種類があります。
脳神経細胞、筋肉細胞、血液細胞、粘膜細胞、皮膚細胞、骨細胞など、それぞれの役割を果たすために、独自の形態や機能を備えています。
神経細胞と血液細胞、あるいは粘膜細胞など、どれも似ても似つかぬ姿をしています。
とても同じ細胞が、分裂してできたとは思えないほどです。
しかし、これらの細胞は共通の目的を持って、それぞれの役割を果たしているのです。
その共通の目的というのは、個体を形成するということです。
もちろん一つ一つの細胞が、自分たちがどんな個体を形成しているのかなんて、理解しているわけではないと思います。
それぞれの細胞は、ただ自分の特性に応じた、活動をしているだけなのでしょう。
それでもその活動によって、個体は形成され、安定的に維持されているのです。
個体と細胞たちの関係は、人間で言えば、社会と個人の関係みたいなものです。
ほとんどの人は、普段社会というものを考えないまま、自分の仕事をこなしています。
それでも人々の営みが、社会を築き上げているわけです。
単細胞生物と多細胞生物の違いは、個体を形成するかどうかです。
しかし、それは見た目の話です。
生命エネルギー的に考えるならば、両者の違いは、仲間の細胞たちが持つ、社会性の違いと言えると思います。
人間で言えば、個人個人が食べ物を求めて、さまよい歩いているのが、単細胞生物の生き方です。
それに対して、それぞれが役割を決めて協力し合い、手に入れた食料を、平等に分配する社会を作るのが、多細胞生物の生き方と言えます。
そういう点で、多細胞生物の細胞たちは、人間よりもずっと進んだ社会を、築いているようです。
では、単細胞生物の生物エネルギーをエネルギーDとして、多細胞生物の生物エネルギーを、エネルギーEとしましょう。
エネルギーDは単細胞生物の心だとします。
この場合、一つ一つの細胞には個性がありません。
それはエネルギーDが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んで、まさぐっているような感じです。
一つ一つの指先には、それぞれの感覚があるわけですが、統率しているのはエネルギーDなのです。
多細胞生物の場合、細胞は種類によって個性があります。
でも細胞は細胞なので、これもエネルギーEが物質世界の領域に、たくさんの指を突っ込んでいる状態です。
多細胞生物の細胞に個性はありますが、自分という認識はありません。
ですから、全ての細胞はエネルギーEによって統率されています。
それで、個体という細胞の集合体を、形成することができるのです。
個体を形成できるということは、エネルギーEにはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。
エネルギーDが物質世界を把握できるのは、細胞周辺のごく限られた範囲です。
世界にとって、一つの細胞は一つの点に過ぎません。
ですから、エネルギーDは物質世界を、多くの点によって認識していると言えます。
それに対して、個体を形成して活動するエネルギーEは、点ではなく、もっと大きな空間として、物質世界を認識できます。
エネルギーDではわからない、別の世界を認識できるわけです。
その事から言えるのは、エネルギーEはエネルギーDよりも、高い知性があるということです。
しかしエネルギーEが、物質世界を体験するためには、エネルギーDとリンクして、細胞という形態を、利用させてもらう必要があります。
つまり、エネルギーDとリンクしないといけないわけです。
単細胞生物の中には、分裂して増殖しても、仲間と接触したまま、塊を作るものがいます。
これは群体と呼ばれています。
恐らく、この群体という状態が、エネルギーDとエネルギーEを、つないだのでしょう。
エネルギーEとリンクした群体は、次第に単なる細胞の集合体ではなく、細胞によって役割を持つようになります。
そして、シンプルな形態の多細胞生物が誕生すると、そこから様々な形態の多細胞生物が、爆発的に現れたのだと考えられます。
初めは小さな生き物だったのが、次第に大きなものが現れるようになります。
そして海、陸、空と、あらゆる所を活動の場とした、数多くの生き物が、登場するようになるのです。
進化論を語る人の中に、生存に有利なものだけが生き残ると、言う人がいますが、あれは間違いです。
有利か不利かではなく、存在が可能なものは、ありとあらゆる姿で現れるのです。
それだけ生命エネルギーが、物質世界で姿を持とうとする力は、旺盛なわけです。
この世界に出て来るチャンスは、ただの一点も見逃さない勢いです。
環境が変わったために、死滅する生き物もいます。
でも、それは他の生き物よりも、生存が不利だったのではなく、環境の変化に適応できなかっただけのことです。
有利不利の問題ではありません。
話を戻し、様々な形態を持つようになった多細胞生物ですが、そのほとんどが、自分という概念はないと思われます。
そんなことはない、ペットの犬や猫は、自分というものがわかっていると、反論される方もいるでしょう。
でも、それは人間の影響で、そうなっているだけでしょう。
自然界の動物たちは、自分という概念は持っていないと、私は思います。
お腹が空いたとか、水が欲しいとか、熱くてたまらないとか、体がかゆいとか、そういう感覚は、動物にもあるでしょう。
餌や縄張り、あるいは交尾相手を巡って、他の仲間たちと激しく争う動物もいます。
これはオレ様のものだという、感覚があるのでしょうね。
でも、それと自分という概念とは、別なのです。
自分という概念は、観察対象として、自分自身をとらえた時に、生まれるものです。
自分の体は目で見えますし、触れることもできます。
ですから、体は観察対象になります。
しかし、その体に動きを指示している、自分の心を見ることはできません。
もちろん、触れることもできません。
自然の動物は生きることが、最大の目的と言えるでしょうから、意識の目は常に、外界へ向けられていると思います。
気持ちがいいとか、怖いとか、感覚や感情を感じながらも、それを感じている、心そのものの存在には、気づいていないでしょう。
ところが、人間は自分自身についても、自分とは何だろうと考えます。
これが自分を認識する、ということです。
そして、自分という概念を持っている、ということなのです。