自分が先
我先に動く人は、日本では敬遠されます。
特に、みんなが困っている時などに、我先に助かろうとする人たちは、それが仕方がないことだったとしても、軽蔑の対象にされるでしょう。
いつでも他の人の事も考えて、行動するのが美徳であり、そんな人間になるように、子供たちは教育されます。
確かに、我先に助かろうとする者たちの姿よりも、互いを思いやる人々の姿の方が、美しく見えます。
ただ、その表面的な美しさだけを見て、それを子供たちに強いるのは、酷な場合があると思います。
と言うのは、誰かを思いやれる人というのは、心が成熟している人だからです。
十分に愛を受けた人は、他の者に愛を与えることができます。
しかし、愛を十分に受けられなかった人や、愛が枯渇している人は、他の者に愛を与えることができません。
いい悪いの問題ではなく、これは仕方がないことなのです。
お金がなければ、誰かにお金を与えることが、できないのと同じです。
幸せを知らない人は、他人を幸せを教えることができません。
喜びを知らない人は、他の人を喜ばせることができません。
他の人たちとのつながりを、認識できない人は、他の人のことを考えることはできません。
助けてもらった記憶がなければ、誰かを助けようとは思いません。
全て経験の結果であり、本人がわざとやっていることでは、ないのです。
他の人のために、何かをするためには、まず自分が満足していないといけません。
これは大人にも、子供にも言えることです。
自分自身が満たされていないのに、他人を満たすよう求められると、何で自分がという、不満の籠もった疑問を持ちます。
反発だって、したくなるでしょう。
反発することすら許されずに、むりやり他人への奉仕をさせられていると、必ずおかしくなってしまいます。
これも大人にしても、子供にしても同じです。
表面的な美しさだけで、他人への奉仕を求めることは、正しいやり方とは言えません。
その前に、心を愛で満たしてやることと、他の人たちとのつながりに、喜びを感じるという経験を、させてやることが大切です。
十分満たされた状態で、他人への奉仕を経験することは、とてもいいことだと思います。
気をつけないといけないのは、子供は親や先生に何かを求められると、いい子供でいようとするということです。
それで、本音を隠して無理を続け、最終的には心が折れてしまいます。
そして、心が折れた自分を恥じ、親や先生の期待に応えられなかったことで、自分を責めたり、自信をなくしたりするのです。
どんなに優れているように見えたとしても、所詮は子供です。
いろんなことを押しつけると、その子が潰れてしまいかねません。
大人は子供に何かを求める時、それが強要になっていないか、気を配る必要があります。
大人でも、新入社員は自分をよく見せようとして、無理をすることが多いでしょう。
「誰かのために」という美しい言葉を利用して、やりたくもないことを、強要されることがあると思います。
それができなければ、人として落第だと思わしめる、雰囲気を作られると、なかなか拒みにくいものです。
しかし、やりたくなければ、やりたくないと拒否できるだけの、強い意志を持ちましょう。
ただ、やってみると、案外楽しかったり、思いがけない喜びが、見つかることもあります。
ですから、試しにやってみるのも、いいと思います。
大切なのは、選択の主導権は、常に自分が持っているということです。
やってみたけど、やはり自分には合わないと思えば、やめればいいのです。
一度やり始めたら、やめることができないというものは、初めから手を出さない方が、無難でしょう。
罪悪感を感じる必要はありません。
他人に何と言われようと、まずは、自分が十分に満たされることが、先決です。