その欲求はどこから?
全国各地でじわじわと、コロナ感染者数が増えて来ています。
東京や大阪などの大都会を中心に、これまで以上の感染爆発が懸念されています。
病気のことだけを考えれば、感染している人は、じっとしているのが一番なのでしょう。
でも、感染しているかどうかがわからないのに、じっとしていろと言われても、なかなか大変ですよね。
政府は緊急事態宣言とワクチンで、この難局を乗り切ろうとしているようですが、すでに緊急事態宣言の迫力はなくなり、国民には緊迫感が伝わっていません。
自分が大変な思いをするとか、身近な人が亡くなったりすれば、これはいけないと思うのでしょう。
しかし、今の時点では若い人の重傷者は少ないですし、多くの人が核家族や単身での生活をしているため、身近な人の不幸というものを、体験する機会がなかなかありません。
全然実感が湧かないので、外へ出るなと言われても、納得できない気持ちが残り、かえって反発するような行動にでたり、自分の考えだけで動き回るということが、起こるでしょう。
そもそも人は、誰かの指示に従うということが、面白くありません。
自分のことは自分で決めたいわけです。
政府であろうが何であろうが、勝手なことを決めるなよと、思うのですね。
では、外に出ないと自分で決めた人は、どうなのでしょうか。
外に出たくなくて出ないのならば、いいのですが、本当は出たいのに出ないとなると、それは自分の意思とは違う行動になります。
短期間なら我慢もできるでしょうが、長期間になると、やはり苦しくなって来るでしょう。
でも、ここで考えて欲しいのは、外に出たいという気持ちが、本当の自分の思いなのかということです。
夜になると、居酒屋でわいわい騒ぐ。
青空が爽やかで、外へ出たくなる。
いろんな物を見たいし、買い物もしたい。
そんな気持ちになることは、理解できます。
でも、それはスマホ中毒の人が、片時もスマホを手放せないのと、似ていないでしょうか。
自分ではそれがしたいと思っているのでしょうが、それは本音というよりも、習慣になっていて、場合によれば、中毒になっているのかもしれません。
そういうものから遠ざけられると、初めはつらく苦しいでしょう。
しかし、その状況に慣れて来ると、今度は習慣としての楽しさではなく、本当に自分が喜びを感じるような面白いことを、見つけられるかもしれません。
これまでどおりの生活をしていたら、絶対に巡り会えないような喜びを、発見するかもしれないのです。
今の状況は、これまでの当たり前が、当たり前ではなかったと、認識させられるものです。
それは苦しみに見えることもありますが、隠れて見えなかった喜びを、見つける機会でもあるのです。
喜びを見つけられたら、外に出ないということに対しても、もっと寛容な気持ちになれるでしょう。
再び外に出られるようになっても、これまでとは違う暮らしを、求めるようになっていると思います。
新たな喜びを見つけた人は、その喜びをさらに大きくするための、準備を始めるでしょう。
それがちょうど、外に出ない期間と重なって、同じ期間を楽しく過ごせるようになるのです。
今の状況を窮屈に感じたり、不満が出る人は、それが単なる習慣から来ているものなのか、一度確かめて見たらいいと思います。