自分は望まれていないのか その2
自分は誰にも望まれていないのかもしれない。
そう思った人は、きっといろいろつらい思いや、大変な思いをして来たのでしょう。
親に虐待を受けたり、信頼していた先生や友だちから、ひどい扱いを受けてしまったり、職場でも孤立していて、誰にも話しかけてもらえない、というようなことがあるのかもしれません。
そんな状況で、自分なんか誰にも望まれていないのではないかと、考えたくなるのは理解できます。
でも、この「誰にも」という言葉の対象になっているのは、人間社会における人間のことです。
そんなの当たり前だろと思うでしょうが、まあ話を聞いて下さい。
「誰にも」という言葉の対象が、人間だと考える場合、自分自身のことも一人の人間と受け止めています。
この場合の人間というのは、生きた肉体を持った、個人としての人間です。
自分を一人の人間と見ているので、同じ体を持つ人間たちの間で、自分がどう見られているのか、あるいはこの社会で自分はどううまく立ち回るべきなのか、などと考えてしまうのです。
他の人たちが持っている考え方や価値観が、誰にも優しいものであればいいのですが、自分さえよければいいと考える人たちの、身勝手な価値観が蔓延している世の中です。
自分は人間だからと考えると、理不尽を感じながらも、そんな歪んだ価値観にでさえ、自分を当てはめてしまおうとするものです。
しかし、自分という存在の本質を考えると、肉体=自分 ではないと気がつくはずです。
人間の本質は心にあり、肉体にあるわけではありません。
心と肉体は密接な関係がありますから、肉体の状態や感覚が、心に影響を及ぼしますし、心の状態や動きが、肉体に影響を及ぼしもします。
互いに相互関係にあるわけですね。
でも、どちらが上位にあるのかと言えば、心です。
心がなければ肉体は活動ができません。
しかし、心の方は肉体から離れても、活動ができるのです。
体外離脱や幽霊なんかが、そのいい例です。
この世界、この体を離れた状態においては、人間社会における常識や価値観は通じません。
そこには、こことはまったく異なる価値観があります。
それは、人々が愛と呼ぶものを基盤にした価値観です。
愛とは、全ての存在が、元は一つであったことを、思い出させてくれる感覚です。
ここの世界では、個としての在り方を追求し過ぎているため、他の存在とのつながりが、感覚的にわからなくなっているのです。
そのため愛が欠如した価値観が蔓延し、何でもかんでも個人の責任という、冷たい考え方が広まるのです。
それでも、本当は誰もが周囲とのつながりを感じています。
そこに意識を向けないので、気がつかないだけです。
動物でも植物でも大自然でも、そこにつながりを感じられるようになれば、もっと他の存在のことも、感じられるようになるでしょう。
それは亡くなった家族かもしれませんし、まだ生まれて来ていない存在かもしれません。
どんなに寂しくても、どんなに独りぼっちに見えたとしても、いつだってすぐそばに、自分を支えてくれる存在や、見守り続けてくれている存在がいるのです。
それは好きとか、愛という言葉を越えた、深いつながりによるものです。
自分は望まれているのかという考え自体が、全く無意味になるものなのです。
全ては元々一つであり、全てはつながりがあります。
存在しているものは、存在するべくして存在しているのです。
いらない存在であれば、初めから存在していることはありません。
自分に価値があるのか、自分は望まれているのか。
その答えは、自分が存在しているということにあります。
狭く閉鎖的かつ限定的な、人間社会の優劣を基準とした考え方で、自分を見てはいけません。
自分が存在しているということは、それだけで胸を張っていればいいのです。
でも、どうして存在しているのか。
そう考えたくなるでしょうね。
それは、存在しているから存在しているのですが、あえて理由をつけるなら、自分という個性的な好奇心が、自分にしかわからない喜びを、見つけるためでしょう。
同じことを同じように喜んでいるように見えても、本当は一人一人の感じ方は異なります。
それが個性であり、それがこの世界に生まれて来た理由です。
あえて言うならば、望まれていない者など、一人も存在していません。
誰が望んでくれているのか。
それはこの世界です。
宇宙全体が、あなたの存在を望んでいるのです。
それを神という言葉で表現しても構いません。
私たちは宇宙の一部であり、神の一部です。
存在しているのは当たり前であり、望まれているのも当然なのです。
あなたが感じている世界は、あなただけのものです。
無限の宇宙のどこを探しても、あなたという存在の、代わりになるものはありません。
どんなに小さい存在に見えたとしても、あなたという存在は、宇宙にとってかけがえのないものなのです。
自分を人間社会の一人の人間に過ぎない、とは考えないで下さい。
今の姿は仮の姿であり、私たちはもっと大きな存在です。
この世界には、自分だけの世界、自分だけの喜びを見つけるために、やって来たのです。
ですから、自分が自分であることに喜びを感じ、自分だけの喜びを求めて下さい。