刑務所の話 その1

世界一受刑者に優しいと言われる、ノルウェーのハルデン刑務所を取り上げた、番組を見ました。

刑務所には格子がなく、受刑者は全く普通の暮らしを、刑務所内で過ごすことができます。

建物の内装も立派です。

受刑者の部屋は個室で、テレビもDVDもあります。

小さなスーパーもあって、受刑者はそこで買い物をし、自分たちが食べる物を、自分で調理して食べるのです。

当然、殺人犯のような重大な事件を、起こした者もいます。

でも、お互いに相手が起こした事件など、全然気にしない様子で、みんな和気あいあいとしていました。

気の合う者同士で、ゲームをしたり、歌を歌ったり、ラジオ局までが入って来て、彼らの声を国民に届けています。

毎週末、刑務所を訪れた家族と、自分たちだけで過ごすことができる建物もあり、生まれたばかりの子供を、受刑者が腕に抱くこともできるのです。

日本人で言えば、遠方に単身赴任している夫と、週末に会う家族のようですね。

そこには監視がまったくないので、悪巧みをしたり、薬物を持ち込むことも可能ですが、基本的に受刑者たちは、信頼されている形です。

こうした人間的な扱われ方は、実情を知らずに入所した受刑者を、戸惑わせるようです。

普通は、刑務所とは罰を受ける所であり、嫌な場所だと思われているからです。

また、実情を知っている者の中には、この刑務所に入ることを、警察と交渉した者もいます。

麻薬の密売をしていた受刑者は、この刑務所で勉強をし、資格や技術を手に入れて、外に出ることを目指していました。

彼が言うには、何もないまま外へ出ると、きっと同じことをしてしまうが、もうそんなのは御免だから、ここで勉強をするのだそうです。

ごくわずかながら、所内で自殺をしたり、脱走をする者もいるようですが、ほとんどの受刑者は、この刑務所を好意的にとらえています。

そして、この刑務所を出所した者たちの再犯率は、かなり低いと言われています。

ただ問題は、これだけの刑務所を造るのに、多額の費用がかかることと、受刑者全員に快適な暮らしを提供することに、国民全員が納得しているわけでは、ないということでしょう。

それでも、そうせざるを得ない事情が、ノルウェーにはあるのです。

と言うのは、ノルウェーには死刑も終身刑もありません。

どんなに重大な事件を起こしても、いつかは必ず、受刑者は社会に出て来るのです。

と言うことは、再犯率をいかに下げるかという事が、一番の問題になります。

そのため、感情は脇に置いて、様々な取り組みを試行錯誤する、必要があるのです。

犯罪に巻き込まれた側からすれば、受刑者が罰を受けずに、快適な暮らしをしていることに、違和感を覚えることでしょう。

下手をすれば、被害者よりもいい暮らしを、させてもらっているかもしれないのです。

それに国が犯罪者を罰しないのであれば、自ら手を下して、犯罪者を罰してやると考える人が、現れるかもしれません。

再犯率が低いことは、大いなる魅力ではありますが、被害者の個人レベルでは、再犯率などどうでもいい事でしょう。

要は、犯罪というものを、個人レベルで見るのか、社会レベルで見るのか、という事です。

社会レベルでの視点を優先するのであれば、国や自治体は被害者のフォローを、責任持ってしなければなりません。

ただ、この問題が教えてくれているのは、刑務所の話だけではないのです。

人間的な扱いをされることで、再犯率が減るということは、受刑者たちは犯罪を犯す前は、人間的に扱われていなかったと、見ることができるでしょう。

彼らが初めから人間的に扱われていたならば、彼らが犯罪を犯すこともなかったということです。

お互いの思いやり

 ※くりまんさんによるイラストACからの画像です。

思いやりのある人と出会うと、心が和みますよね。

また、誰かを思いやる時、とても優しい気持ちになっています。

優しい気持ちの自分って、すごくいいと思いませんか。

このように、誰かから親切にされた時、された方だけでなく、した方も気持ちがいいのです。

ところが、誰かを思いやったつもりが、予想外の嫌な態度を見せられることがあります。

そんな時には、とても悲しい気持ちになり、もう二度と誰かに親切なんか、するものかと思うかもしれません。

あるいは逆に、気持ちが尖っている時には、普段ならばどうでもいいような、ちょっとしたことでも、気に障ることがあります。

相手が親切な気持ちでしてくれたことでも、余計なお世話だと受け止めてしまいます。

どちらも誰にでも起こり得ることですが、いずれも残念なことですよね。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、混んでるバスや電車で、座っていた若い人が、途中から乗車して来た、年配の人に席を譲ろうとすることがあります。

普段から、ゆずり慣れている人はともかく、そうでない人が、知らない人に声をかけて、席を譲るというのは、相当勇気のいることです。

それを、迷いに迷った挙げ句、譲ってあげようと立ち上がったのに、他の乗客たちの見ている前で、年寄り扱いするなと怒られたら、どんな気持ちになるでしょうか。

恐らく、その人はお年寄りを見ても、再び席を譲ろうとはしないでしょう。

あるいは、怒られなかったにしても、結構です、大丈夫です、と断られても、大恥をかいたような気になるものです。

こんな場合には、自分はまだ年寄りではないと思ったとしても、にっこり笑って、ありがとうとお礼を述べ、座らせてもらった方がいいと思います。

できれば、一言二言、席を譲ってくれた人と、ちょっとした会話でもできれば、最高です。

もし、座れない事情があるのなら、相手の気持ちへの感謝を示してから、そのことを説明し、やはり一言二言、会話をかわすというのが、いいでしょう。

そういうのが、お互いを思いやるということなのです。

悪気はなかったにしても、誰かの好意に対して、嫌な態度を見せてしまったならば、次からはそうならないよう、気をつけましょう。

 ※ウラテツさんによるイラストACからの画像です。

お店などで、自分は客だということで、傲慢な態度を見せる人がいます。

一方で、せっかく来てくれたお客に、無愛想で不親切な応対をする店もあります。

こういう場面にでくわすと、とても残念ですし、悲しい気持ちになります。

みんな人間に生まれて来たのに、人間としての喜びを、自ら放棄しているようなものです。

お互いを思いやり、感謝し合う世の中であれば、世の中を騒がすような事件などが、ニュースで伝えられることはなくなるでしょう。

こういう世の中にするためには、子供の頃からの教育が大切です。

無理やり知識を詰め込む教育ではなく、人間としての基盤を築くような教育こそが、必要なのだと思います。

また、その教育は学校任せにするのではなく、家庭や地域でも、しっかりと子供に教えないといけません。

いずれは社会の中心を担う子供たちが、思いやりと感謝の心を、当たり前のこととして抱くことができれば、世の中は間違いなく、いい方向へ変わるでしょう。

 ※Fuha_Wakanaさんによる写真ACからの画像です。

物事の意味

 ※mirさんによる写真ACからの画像です。

今日の愛媛は、ずっと雨です。

昨夜から降り続けていますが、久しぶりの雨です。

雨の日と晴れの日では、どちらがいいかと問われると、やはり晴れの日がいいと思います。

最近では大雨が続くと、川が氾濫して、地域に甚大な被害を及ぼすことが、少なくありません。

でも、雨が降らなければ水不足になってしまいます。

かつて松山はひどい渇水になって、ダムの底が露出するほど、水不足になったことがありました。

二、三年前に愛媛国体が行われた時も、いつもは水がたくさんある、今治の玉川ダムの湖が、渇水によって、やはり底が露出するほどになりました。

このダムでは、ボート競技が行われる予定だったのですが、一時は競技の開催も危ぶまれました。

でも、この時は開催直前に台風が来てくれて、雨を降らせてくれたので、何とか競技を行うことができました。

雨万歳です。

 ※熊澤充さんによる写真ACからの画像です。

雨は、空中の水蒸気が凝縮して、空から落ちて来る現象です。

そこに、いいも悪いもありません。

しとしと降ろうが、土砂降りになろうが、雨はただの雨に過ぎません。

その雨を迷惑に思うのか、ありがたく思うのかは、こちらの勝手な都合です。

同じ事が、雨以外のものにも言えます。

病気や怪我で、つらい思いをする人がいます。

時には、それが元で亡くなる場合もあります。

そういう面だけを見ると、病気や怪我はよくないものだと、なるでしょう。

実際、病気も怪我も、人々から好まれていません。

ところが、病気や怪我をすることで、それまでの生き方を見直して、豊かな人生を手に入れた人もいるのです。

そういう方たちは、病気のお陰で、怪我のお陰で、と言います。

この方たちに取っては、病気も怪我も悪者ではないのです。

病気にしても怪我にしても、そこから何をくみ取るか、そこにどんな意味を見出せるかで、その人の敵にも味方にもなるわけです。

でも、敵になるか味方になるかを、病気や怪我が決めているわけではありません。

決めるのは、やはりこちらなのです。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

何かを悪いものと見なし、嫌な気分になるのも、一つの道です。

何かから思っても見なかった、いい一面を発見して、得した気分になるのも、一つの道です。

どちらの道を進むのか、その選択権は私たちにあります。

どうして、自分には嫌なことばかりが、起こるのだろうと悩む人もいるでしょう。

でも、それは言い換えれば、自分が物事の嫌な面ばかりを、選び続けているということです。

誰かに呪われているとか、自分は不幸の星の下に産まれたのだという考え方をするのは、やはり自分で選択した思考です。

誰かが無理やり、こう考えろと、考えさせているわけではありません。

思いがけない変化や、期待外れの出来事などに、落胆しない人はいないでしょう。

でも、そこに新たな道を見つけられた人は、うなだれていた頭を持ち上げて、前進できるようになります。

物事をどう受け止めるのか、そこにどんな意味を見出すのか。

どの道を進むのかを決めるのは、いつだってあなた自身なのです。

愛とは

 ※monicoreさんによるPixabayからの画像です。

愛とは何でしょう。

愛と言えば、まず頭に浮かぶのは、男女の愛でしょう。

それから親の愛、子供の愛、兄弟姉妹の愛、などの家族愛でしょうか。

友情や助け合いなどは、愛という言葉を使いませんから、愛とは少し違うように思うかもしれません。

でも、これらも一つの愛の形であり、愛の表現だと言えるでしょう。

もっと大きな視野で見ると、人間愛というのもありますね。

自然や動物、植物を愛するということもあります。

そして、恐らくは神さまの愛というものが、何等かの神を信仰する人たちにとっては、最高の愛でしょう。

しかしこれは、愛にはどのような種類があるかを、説明しているだけで、愛とは何かという質問の、答えにはなっていません。

愛にいろいろ種類があるのは、わかりましたが、結局、愛とは何なのでしょう。

 ※acworksさんによるイラストACからの画像です。

体の全ての細胞は、たった一つの受精卵が、分裂をすることで作られます。

それと同じように、世界中のすべての存在は、たった一つの存在の分身であると考えることができます。

そして、愛というものは、自分が元の一つの存在の分身であると、感覚的に理解する、あるいは理解させられることだと、言えるでしょう。

自分がどのような存在であるかなど、何も気にする必要はありません。

自分という存在は、無条件に受け入れられ、他の存在たちと全くの同価値であると、理解できるのです。

自分なんかに、どんな価値があるのだろうと、自信が持てない人は多いでしょう。

その存在価値を無条件に認められ、全く純粋に受け入れてもらえたならば、どれだけ嬉しく幸せなことでしょう。

それが愛というものです。

愛は、自分と相手が一つであることを、思い出させてくれます。

だからこそ、惹かれるのです。

 ※YOU_KAZさんによる写真ACからの画像です。

私たちが暮らす物質世界は、自分と他のものを区別し、分ける世界です。

それは他のものとのつながりを、感じさせなくするのです。

一見、自由に見えるこの世界ですが、結果として孤独に陥りやすいのです。

そんな中で、本当はつながっているんだよと、教えてくれているのが、家族愛などの、身近な人たちとの間に感じる愛情です。

成長して来ると、生物としての人間の本能が、種族維持のために活動を始めます。

それが異性を求める行動につながりますが、そこにも相手を大切にする気持ちが表現されると、男女の愛というものを、感じるようになります。

同性愛者同士の愛も、これと同じです。

体が男か女かは、実は重要ではありません。

相手を大切に想う気持ちにこそ、真実の愛が隠れているのです。

ところが、本能に従った、異性間の体の結びつきを、愛だと勘違いする人がいます。

相手を愛するというのは、性的に相手の体を、心地よくさせることだと考えるのです。

場合によっては、相手が拒んでいるのに、自分の性欲を愛情だと決めつけて、無理やり相手の体を求める者もいます。

しかし、こんなのは愛でも何でもありません。

愛だと言うのであれば、歪みに歪んだ低質の愛です。

相手を本当に愛しているのなら、絶対に相手を傷つけるようなことは、しないでしょう。

 ※S KさんによるPixabayからの画像です。

全ての存在が、元の一つの存在の分身であれば、全ての存在は家族です。

全ての存在は同価値であり、その本質においてつながりがあります。

そのつながりを感じられた時、私たちは自然の存在に対して、愛情を抱くのです。

その時は、必ず向こうもこちらの愛を感じていますし、こちらへ愛を送っています。

そうでなければ、心がつながっているとは言えません。

誰かに対して、愛情を抱いても、相手の人が気づいてくれないことはあるでしょう。

しかし、愛を感じるのは、表面的な意識ではありません。

もっと心の奥の方で感じるのです。

表面的に相手が気づいてくれていなくても、気にする必要はありません。

また、愛というものを、男女愛などという枠にはめて、理解してはいけません。

枠にはめてしまうと、型どおりの関係を求めるようになり、そうならなければ、相手を裏切り者のように感じるでしょう。

愛は性別を超えたものです。

個人的に独占できるものではありませんし、いかなる条件も不要です。

自分が多くの愛をもらっているのに、気がつかない場合もあります。

でも、生きる喜びを感じていたならば、それは周りの愛を受け取っている証拠です。

愛をくれるのは、人間であるとは限りません。

自分の周囲に存在する全てのものに、感謝の気持ちを持ちましょう。

 ※👀 Mabel Amber 👀, Messianic Mystery GuestさんによるPixabayからの画像です。

もし、生きる喜びを感じられない時があったなら、それは周りが愛をくれていないからではありません。

あなた自身が自分の殻に閉じこもり、愛とのつながりを断っているのです。

何か嫌なことがあった場合、それを誰かのせい、何かのせいにしたくなる時は、特にそうです。

言い換えれば、愛とは生命エネルギーそのものであり、精神エネルギーでもあるのです。

私たちは、愛と呼ばれる生命エネルギー、あるいは精神エネルギーの海の中に、その一部として存在しているのです。

海の中で、水の状態でいると、どこに境目があるのかわかりません。
全ては一つにつながっています

ところが、一部が冷えて氷になったとします。

すると、そこだけが全体から孤立した状態になります。

孤独を感じている時というのは、そんな状態だと言えるでしょう。

どうすれば、孤独ではなくなるのか。

それは氷から、水に戻ればいいのです。

つまり、あなた自身が、愛というエネルギーに戻ればいいのです。

 ※stokpicさんによるPixabayからの画像です。

本当の自分

 ※Katie613さんによる写真ACからの画像です。

自分探しという言葉が、流行していますが、求める自分が見つかる人は、それほど多くないと思います。

と言うのは、みんなが探し求めているのが、具体的な自分の姿だからです。

しかし、本来の自分には、姿というものはありません。

本当の自分というものは、姿ではなく、心の状態を言うのです。

天職という言葉がありますから、自分にぴったりの仕事は何だろう、と考える人は少なくないでしょう。

それは憧れでもあり、天職に巡り会うことが、人生の成功であるように、感じてしまいます。

そうなると、自分探しというものが、天職探しになるのですね。

ところが、天職と言えるようなものには、なかなか巡り会えません。

これこそ天職だと思ったとしても、病気や事故、災害などにより、その仕事を続けられなくなることもあります。

天職が不可能となれば、人生には絶望しか残されません。

何のために生きているのかが、わからなくなってしまいます。

天職に巡り会えて、素敵な人生を送っている人を横目で見ながら、自分はもうおしまいだと嘆くわけです。

しかし、これは誤解であり、間違った自分探しです。

その理由は、自分というものを、心としての存在ではなく、肉体としての存在として、イメージしているからです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

繰り返しますが、心に姿はありません。

本来の自分に、具体的な姿形はないのです。

それでは、姿形ではない、本来の自分を確かめるには、どうすればいいのでしょうか。

それは、自分が居心地がいいと感じる、心の状態を見極めればいいのです。

穏やかなのがいいのか、刺激があるのがいいのか。

一人がいいのか、大勢でわいわいしているのがいいのか。

自然の中にいるのがいいのか、都会の建物に囲まれているのがいいのか。

体を動かしているのがいいのか、観察しているのがいいのか。

具体的にどんな仕事をするのか、どんな活動をするのか、というのは、今述べたような心の状態を、物質世界で表現する手段として、何が適切かということです。

大切なのは、表現の元である心の状態なのであって、表現方法自体は重要ではありません。

一つの方法が使えなくなったなら、別の方法で表現すればいいだけなのです。

自分が何をしたらいいのか、わからないという人は多いと思います。

それは具体的に何をすればいいのかが、わからないということです。

でも、そんなものはわからないのが当たり前です。

やってみないと、それが自分を表現するのに適切かどうかが、わからないのですから。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

重要なのは、自分がどんな心の状態で、ありたいのかということです。

先に述べた様々な状態は、画一的ではありませんし、固定的でもありません。

人の心は安定と刺激の両方を求めるものですし、一人でいることを好みながらも、仲間を求めたりもします。

いろんな要素が混じり合って、一つの心の状態ができていますし、その状態も、状況に応じて変化して行きます。

ずっと安定を求めていたのに、いざ安定が手に入ると、今度は刺激を求めるという感じです。

冒険を求めながら、家が恋しくなるのと同じです。

ですから、心の状態にしても、画一的かつ固定的な状態を思い描いて、それが本当の自分だと考えてしまうと、またおかしなことになってしまいます。

ポイントは、今、自分は何を求めているのか、ということです。

それが昨日と全然違っていても、構いません。

今こそが大切なのです。

思い立ったが吉日という諺があるように、今どうしたいか、どうありたいか、ということに目を向け、それがわかれば、今すぐにそのように動くことです。

どこかを探しても、本当の自分は見つかりません。

お金があるのかどうか、注目を浴びるかどうか、社会的に重要な仕事かどうか。

そんなことは全て、物質世界の中に、人間が勝手に作り上げた価値観に過ぎません。

そういうものを超えた所にある、自分の心の状態こそが、本当の自分なのです。

 ※Ben FriedenさんによるPixabayからの画像です。

甲賀忍者

 ※kumiさんによるイラストACからの画像です。

滋賀県の甲賀市では、毎年2月22日を「ニンニンニン」で、忍者の日と規定しているそうです。

この日、市役所の職員は、何と忍者の姿で仕事をしていらっしゃいました。

今は新型コロナの影響で、みなさんマスク姿ではありましたが、それでも忍者姿でお仕事に励んでおられました。

この日、県下の小中学校では、年に一度の特別メニュー「忍者給食」が登場し、子供たちを喜ばせていました。

その内容は、地域ブランドの古代もち米「黒影米」や、手裏剣柄の「なると」が入った「忍者鍋」、忍者キャラクターの絵柄の入ったコロッケなどです。

ご馳走さまをする子供たちも、両手を合わせるのではなく、印を結ぶポーズでした。

市のPRの一環だそうですが、真面目に取り組みながら、その仕事を楽しんでいらっしゃる姿が、とても印象的でした。

特に、不安になりがちな今のご時世には、打ってつけのイベントだったと思います。

コロナウィルス感染や、生活不安に対しては、具体的に対応する必要はありますが、気分だけでも明るく前向きで、ありたいものですね。

甲賀忍者のみなさんは、そのお手本を示してくれていました。

これからも頑張っていただきたいと思います。

ポジティブエネルギーとネガティブエネルギー

ネガティブエネルギーは、反発する性質があります。

これに対して、ポジティブエネルギーは、一つになろうとする性質があります。

反発力と引力。

これは電磁力と同じですね。

電極のプラス同士、あるいはマイナス同士は、反発し合います。

これに対して、プラスとマイナスは引き合います。

磁極の N極と S極は引き合いますが、N極同士、S極同士は反発し合います。

この電磁場における引力や反発力も、実はポジティブとネガティブのエネルギーが、介在しているのかもしれません。

 ※至福の隙間さんによるイラストACからの画像です。

原子はプラスの原子核と、マイナスの電子で構成されていますが、上手い具合に引力と反発力のバランスが取れていて、それで原子という形が構成されています。

このバランスが崩れていれば、原子は一つの点に集約されるか、あるいはバラバラになっているでしょう。

また原子同士の引力や反発力によって、形のある物体が作られます。

これもポジティブとネガティブのエネルギーバランスが、上手く取れているからでしょう。

こう考えると、ポジティブは引力、ネガティブは反発力というだけのことで、いいも悪いもないのがわかります。

プラスとマイナスの電極があるとしましょう。

マイナスに電荷が集まり、マイナス電子がたくさんあります。

両極の間に電流が流れる時、マイナス電子はプラスの電極へ移動します。

この電子の動きは、マイナスの電極からすれば、ネガティブな動きに見えるでしょう。

一方、プラスの電極からすれば、ポジティブな動きに見えるのです。

同じ電子の動きが、電極によって、ネガティブに見えたり、ポジティブに見えたりするのですね。

でも、電子の動きそのものは、ポジティブもネガティブもないわけです。

これと同じで、何か物事が起きた時、そのこと自体は、ニュートラルの状態です。

ポジティブでもネガティブでもありません。

それをどの立ち位置で見るかによって、同じ物事が、ポジティブに見えるのか、ネガティブに見えるのかが決まるのです。

 ※阿部モノさんによるイラストACからの画像です。

たとえば、誰かが亡くなったとします。

普通に考えれば、ネガティブなことのように思えるでしょう。

しかし、死後も魂が残り、人生は単なる学び場所に過ぎない、と考えている人は、必ずしもネガティブには受け止めません。

人生を途中で投げ出すような、亡くなり方であれば、やはりネガティブにとらえるかもしれません。

しかし、学び終えて世を去ったのだと見れば、ポジティブにとらえるでしょう。

さらに広い視野を持っている人の場合、人生を途中で投げ出したように見えても、それも一つの経験であり、いずれ学ぶべきことは、学ぶはずだと考えます。

こう考えるならば、どのような亡くなり方をしたとしても、それをポジティブにとらえることになるわけです。

結局、ネガティブかポジティブかというのは、自分の立ち位置、自分の価値観で決まるわけです。

世の中がネガティブに見えるのであれば、それは自分の立ち位置が、そのような所にあるということです。

ちなみに、ポジティブにとらえるのと、大切な人がいなくなったことを、どう感じるかは別の話です。

大切な人が突然いなくなれば、それはやはり悲しいことでしょう。

 ※べあともさんによるイラストACからの画像です。

ネガティブなものを、裏から見れば、そこには必ずポジティブがあります。

物事を一方向だけから見るのではなく、いろんな角度から眺めてみるのがいいでしょう。

その上で、自分はネガティブがいいと思うのであれば、ネガティブな位置に、ポジティブがいいと思う人は、ポジティブな位置にいればいいのです。

大切なのは、両方の見方ができるというのを、知っておくことです。

電流が流れる時には、プラスの電極とマイナスの電極があるのだと、理解しておくのと同じです。

両方を知っていれば、あとは自分がどちらに立つのか、好みの問題ですね。

ポジティブを知った人が、みんなネガティブを拒絶するわけではありません。

 ※David MarkさんによるPixabayからの画像です。

たとえば、スポーツなどのライバルを、敵と見るのか、同じ仲間と見るかは、その競技の質や、試合の雰囲気、対戦前の約束事などで、変わって来るでしょう。

お互いに真剣勝負を望むのであれば、ゲームの間だけ、お互いを敵と見なして争うことになります。

しかし、相手を傷つけたり、殺したりするような争いにはなりません。

またゲーム以外では、互いを認め合うよき友ですし、対戦中でも、相手に対する畏敬の念は、忘れません。

こんな感じで、ネガティブとポジティブのバランスを調節しながら、楽しむのがいいでしょう。

他人の人生

 ※nasuka16さんによる写真ACからの画像です。

他人の人生を、背負うことはできません。
もちろん、変えることもできません。

たとえ、それが自分にとって大切な人であっても、自分ではない人の人生を、背負うことはできません。

その人の世話をすることはできます。

その人を支えることはできます。

それでも、それでその人がどのように決断し、どのように行動するのかは、その人の自由です。

その人の人生を歩むのは、その人自身なのです。

こちらから見て、それがどう見えたとしても、それがその人の選んだ結果であれば、どうすることもできません。

怒ったり泣いたり、がっかりしても、どうにもならないことなのです。

できることは、それがその人の選択であるならば、それを受け止めて、認めてあげることでしょう。

否定すれば、その人の存在を否定するのと同じです。

その人が大切であるのならば、自分の感情は脇に置き、その人の選択を受け入れましょう。

 ※雰囲気イケメンさんによる写真ACからの画像です。

選択した結果は、全て本人に戻って来ます。

人はそうすることで学び、成長するものなのです。

たとえ、それが痛みや苦しみにつながるものだとしても、その中に、その人の学びがあるのならば、他人がとやかく言うものではありません。

その人が必要とするものが、その中にあるのであれば、それを引き止めることはできないのです。

私たちにできることは、その人が必ず、そこから何かを学びとり、成長することを信じて、見守るだけです。

また、その人がどんな選択をして、どのような結論に至ったとしても、それに対して、他人は責任を感じる必要はありません。

感じたところで、仕方がありません。

もっとこうすればよかったのではないかとか、ああしてやればどうだっただろう、と考えてしまうかもしれません。

しかし、それを言い出すときりがありません。

それに、相手がこうだと決めてかかっているものは、どうにもしようがないのです。

その時に自分ができることをして、あとは、やはり見守るだけです。

 ※y********************mさんによる写真ACからの画像です。

もう一つ大切なことは、自分自身が自分の人生を歩むのを、忘れないということです。

学びと成長は、自分にも必要なものです。

他人の人生に振り回されて、自身の人生に目を向けることができないのは、苦しい思いをするばかりで、少しもいいことはありません。

ただ、それも一つの学びでありますから、そこから自分の人生の大切さを知る、ということになるのかもしれません。

いずれにしても、それぞれの人生の選択権や決定権、そして責任は、その人自身にあります。

その人の人生は、その人のものなのです。

自分にできること、あるいは自分がするべきこと、それは自分の人生を生きるということです。

孤高の人

 ※39RA1さんによる写真ACからの画像です。

出る杭は打たれると言いますが、それでも伸びる杭もあるのです。

ところが、伸びた杭は周りの杭と比べると、一本だけ高く伸びますので、周りから浮いてしまっているようにも見えます。

これが、いわゆる孤高の人です。

何かに懸命に打ち込む人。
大きな夢を抱いて、その夢に向かって進む人。
未知の世界に果敢に挑戦する人。
常識に囚われず、信念を貫く人。

こういう方たちは、みんな孤高の人です。

 ※ちょこっとさんによる写真ACからの画像です。

周囲にいる普通の人たちには、自分が考えていることや、やろうとしていることを、なかなか理解してもらえません。

場合によって、ただの変わり者とか、頭がおかしい人と、思われかねません。

でも、自分が信じた道を諦めて、他の人たちに合わせて生きると、自分が生きている実感が湧きません。

かと言って、自分が思ったとおりに生きると、孤独感を味わうのです。

進む道に壁があっても、それを乗り越えるための苦労を、誰も分かち合ってくれません。

新しい発見があっても、誰もそれを喜んでくれません。

そんな自分を悲劇の主人公のように、受け止めてしまうと、その人は挫折したり、自らの命を絶ったりするでしょう。

しかし、どんな苦労にもめげずに、己の道を突き進んで行けば、周囲より飛び出た杭は、どんどん高く伸びて行きます。

高くなればなるほど、周囲がよく見通せるようになるのです。

そうすると、すぐ近くには自分と同じような者が、一人もいなくても、離れた所には、自分と似たような高く伸びた杭が、見えて来ます。

 ※クランさんによる写真ACからの画像です。

その状況は、向こうの杭でも同じです。

互いの存在に気がついた杭同士は、自分の仲間がいることを喜び、それを励みにするでしょう。

この場合、必ずしも杭の種類が、同じである必要はありません。

つまり、相手が自分がやっていることと、全然違うことに打ち込んでいても、構わないのです。

周囲の無理解や多くの困難にもめげずに、目指すもののために打ち込む姿が、強い親近感を持たせてくれるのです。

やっていることが違っても、そういう人は仲間だと思うでしょう。

孤高とは、初めは孤独との戦いです。

それでも、自分の道を進み続けると、必ず本当の仲間、信頼できる仲間と、巡り合うことができます。

孤高における孤独とは、人生観や世界観が、周囲の人よりも高い位置から、眺めることなのです。

それは一般の人が登れないような、大きな山に一人で立ち向かい、とても高い所から、下界を見下ろしているようなものです。

 ※PexelsさんによるPixabayからの画像です。

当然、それは孤独です。
しかし、とても高貴で神聖な孤独です。

山頂はまだまだ先にあっても、その山頂を目指して登り続ける、他の仲間たちの姿が見えると、力が湧いて来るでしょう。

孤高とは、そういうものなのです。

人と違う何かを、追い求めている人は、それなりの苦労をされると思います。

大変な孤独を味わうかもしれません。

それでも、その孤独は勲章です。

他の人が知らない世界へと、突き進んでいる証です。

その孤独を胸に飾って、さらに上を目指して下さい。

必ずや、仲間たちと巡り会い、喜びを感じる日が訪れますから。

 ※StockSnapさんによるPixabayからの画像です。

ハイブリッド その3

ハイブリッドが新しい存在であるのなら、それは人類の進化と関係していると、言えるかもしれません。

それは新しい特徴を持つ人間の、登場を意味するだけではありません。

ハイブリッドの人たちを通じて、全ての人が互いを認め合い、心を一つにできれば、精神をも含めた、人類の大進化となり得るでしょう。

それは恐らく、個の意識を保ちながら、同時に全体の意識も併せ持つような、そんな存在になるのだと思います。

互いの違いで、争うことはありません。

多様性はハーモニーとして、受け止められるでしょう。

誰か一人が取り残されて、悲しむことはなくなります。

誰かの喜びは、全体の喜びになるのです。

人類が大進化すれば、そんな社会が訪れるのだと思います。

 ※🎄Merry Christmas 🎄さんによるPixabayからの画像です。

ところで、類人猿から人類への進化には、異星人が関わっているという話があります。

異星人が類人猿の遺伝子操作を行い、自らの遺伝子を混ぜることで、人類が創られたというのです。

そうであるならば、元々人類は地球の類人猿と、異星人との間に生まれた、ハイブリッドの存在と言えるでしょう。

また、そうやって誕生した人類と、異星人が直接性交渉を行えば、新たなハイブリッドが生まれるのです。

 ※Margit WallnerさんによるPixabayからの画像です。

神話を読むと、神さまが人間の女性を孕ませるような話が、ありますよね。

あれは単なる作り話ではなく、異星人が人間の女性との間に、ハイブリッドの子供をもうけていたところを、表したものかもしれません。

そうだとすれば、これまでにも異星人との間に生まれた、数多くのハイブリッドが存在していた可能性もあるでしょう。

異星人が人間の姿を装っていたならば、生まれて来た子供は、自分がハイブリッドだとは、知る由もありません。

きっと、自分はみんなと同じ、普通の人間だと思っていることでしょう。

しかし、何となく他の子供たちとは、興味の対象や、物事の考え方が違っていると、感じているかも知れません。

 ※Grae DickasonさんによるPixabayからの画像です。

場合によれば、強い疎外感を感じて、孤立してしまうこともあるでしょう。

でも、世の中を変革へ導いて行くのは、このような人たちなのかもしれません。

実際のところはわかりませんが、異星人との間に生まれた、ハイブリッドが存在していることは、十分可能性のあることだと思います。

また、地球に数多く存在している、人種や民族の違いを乗り越えて、人類が一つになることができれば、目の前に異星人が現れたとしても、さほどショックを受けないかもしれません。

自分たちとは違う姿をしている異星人を見ると、それだけで怪物だと判断し、パニックに陥る人もいるでしょう。

人類に対して、友好的な気持ちを持っている異星人でも、面と向かって、そのような態度を見せられたら、とても悲しくなるに違いありません。

時たま UFO が目撃されることはあっても、異星人が堂々と姿を見せないのは、そういう事情があるからでしょう。

現在、地球上に存在しているハイブリッドの人たちは、自分たちでは意図していなくても、人類を大進化へと導き、異星人との交流を実現させてくれる鍵なのだと思います。

 ※いちようさんによるイラストACからの画像です。