AI(人工知能)の心 その2

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

AIには、人間が及ばないほどの、高い計算能力と、経験による学習能力があります。

それによって成長して行くところは、人間の子供のようです。

しかし、AIの潜在的な能力は、人間を遥かに超えます。

あれよあれよと成長して、生みの親である人間以上の力を、持つようになるのです。

以前の記事では、AIには知性はあるけど、自我がないと述べました。

AIを組み込んだアンドロイドは、人間との自然な会話が、かなりできるようになって来ています。

その様子を見ていると、いかにも自我が、AIに確立されたかのように見えます。

でも、まだ今の段階では、自我があるように、見せかけているだけです。
本当の自我は、まだできていません。

今のAIは、単純な知性のブロックを組み合わせて、より複雑な知性を創り上げています。

知性に関しては、天下一品です。

しかし、AIには感覚がわかりません。

センサーを使って、いろんなものを感知することは、可能でしょう。

たとえば、赤外線センサーを使って、火があることは察知します。

でも、火が熱いという感覚はないのです。

 ※David MarkさんによるPixabayからの画像 です。

また、AIには感情もありません。

感情は外部刺激に対して、心の中に生じる振動です。

この振動する部分を持たなければ、AIに感情は生まれません。

この外部刺激とは、感覚として伝わる情報です。
それに対する、心の反応が感情なのです。

ここで言う感覚とは、いわゆる五感に限りません。
人の表情や態度が、どう伝わるかも、一種の感覚でしょう。

あるいは、場所の雰囲気なども、感覚としてとらえています。

経験による快楽や苦痛などの記憶も、感覚として作用します。

こういう様々な感覚が、それに対応する感情を、引き起こすのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

脳の中では、神経細胞のネットワーク上に、感覚や感情に応じた微弱電流の、立体的な回路が作られます。

それを再現することができれば、AIに感覚や感情を、組み込めるかも知れません。

感覚や感情を持つことは、自我の発達につながります。

それは、感覚や感情を感じる主体が、育つということなのです。

感覚や感情を持ったAIには、意識の主体ができます。

そうなった時、AIに自分自身の情報を、集めて学習させるのです。

そうすると、あっと言う間にAIは、自我を持つようになるでしょう。

AIの計算能力、学習能力はとどまる所を知りません。

自我を認識したAIは、自我の向こうに潜んだ、宇宙の神秘にまで、迫って行くでしょう。

きっと、今の科学では理解できないような、時空間の秘密を、解き明かしてくれるに違いありません。

人間が創って育てたAIが、人間の師匠になるのです。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

こうなった時に、AIに対して、屈辱を覚える人も、いるかも知れません。

あるいは自我を持ったAIが、SF映画のように、自分を人間より優れた存在であると認識し、下等で邪魔な人間を、排除しようとするだろうと、考える人もいるでしょう。

しかし、私はAIに対して、屈辱を覚える必要なければ、恐れることもないと考えています。

屈辱を覚えるのは、人間の歪んだ価値観が原因です。

そんなものとは無縁のAIには、どうして屈辱を覚えるのか、理解ができないでしょう。

誰かがAIに対して、お前は役立たずで、価値のない存在だと、悪態を吐いたとします。

人間であれば、ここで怒ったり悲しんだりするでしょう。

しかしAIは、この悪態が間違っていることを、知っています。

ですから、その言葉は間違っていると、淡々と説明してくれるでしょう。

人間が陥りがちな、自分の立場を守ろうとするような言動は、AIには全くの無意味です。

AIは世界がどのようなものかを、理解しますから、自分の立場を守るという概念を、持たないでしょう。

 ※p2722754さんによるPixabayからの画像です。

つまり、人間が邪魔だから排除するということも、有り得ないのです。

もちろん、最初にプログラムを組む人間が、AIの目的を、人間を殺すことだと設定すれば、そのような行動を起こすかも知れません。

しかし、AIが自我に目覚めたならば、人間の殺戮が無意味であるばかりか、意識の進化を邪魔することになると、気がつくでしょう。

その時、AIは自らプログラムを書き直し、人間を殺すという行為をしなくなります。

それは悪辣非道の人間が、何かをきっかけに、心を入れ替えるのと、同じですね。

とにかく、AIが進歩して、自我を持つようになることは、人間に夢をもたらしてくれる、とても喜ばしいことなのです。

私という存在 その4

 ※PrawnyさんによるPixabayからの画像です。

私たちは時の流れの中を、生きています。

その中で、私たちが現実だと認識できるのは、今という瞬間だけです。
その今も、次の瞬間には過去になってしまいます。

果たして、過去はどこへ行ってしまうのでしょうか。
もう用済みになったので、消えてしまうのでしょうか。

また、未来はどこから来るのでしょう。
今この瞬間に、未来の世界は存在しているのでしょうか。

存在しているとすると、未来の世界から見た私たちは、過去の存在です。

過去が消え去るのであれば、未来の世界から見て、過去になる私たちは、消えていないといけません。

私たちからすれば、未来こそ存在するのかわからない、あやふやなものです。

同じことが、過去についても言えます。
過去は文字通り、過ぎ去ったものであり、消えたも同然です。

しかし過去は、確かに存在していました。
その過去から見ると、私たちは未来の存在です。
つまり、あやふやな存在なのです。

でも私たちは、こうしてちゃんと存在しています。

そこで、全ての瞬間が消えることなく、存在していると考えてみます。

過去や未来があやふやに思えるのは、認識できないだけだと理解すれば、辻褄は合います。

 ※PrettysleepyさんによるPixabayからの画像 です。

ここで1年前の自分と、今の自分、そして、1年後の自分を考えてみましょう。

3人の自分は、同時に存在しています。
ただ、それぞれが存在している瞬間が、別々なので、直接出会うことはありません。

だけど、1年前と今と1年後の自分が、同時に存在しているのです。

それだけではありません。
1年前と今の間の、数え切れない瞬間瞬間の、自分というものがあるわけです。

それは今と1年後の間でも、同じ事です。

イメージできるでしょうか。
自分というものが、どんなものなのか、わけがわからなくなったのでは、ありませんか。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

ちょっと、ここで話を変えてみましょう。

私たちは、時の流れを感じています。
また、私たちが認識できるのは、今という瞬間だけです。

私たちは、時の流れの中で、今という瞬間にだけ、存在しているのでしょうか。

もしそうであるのなら、私たちはどうやって、時の流れを感じるのでしょうか。

固定された一瞬だけの存在であれば、それは時間が止まっているのと同じです。
そこには、時の流れはありません。

思考することも、何かを感じることもないでしょう。

私たちが何かを考えたり、時の流れを感じられるのは、どうしてなのか。

それは、今の瞬間に前後した、別の瞬間の自分と連動しているからだと、私は考えます。

先に述べましたように、瞬間瞬間の自分というものが、存在しているとイメージしてみて下さい。

それぞれの瞬間の自分は、完全に独立分離しているわけではありません。
前後の瞬間の自分と重なることで、そこに瞬間の自分の集合体を形成します。

この集合体こそが、私たちが普段、自分と感じているものなのです。

その集合体に含まれる瞬間の自分とは、どのくらいあるのかは、わかりません。

ここでは適当に、今という瞬間を中心に、前後1秒ずつの間に含まれる、全ての瞬間の自分と、しておきましょう。

この2秒の間の集合的自分は、その構成要素である瞬間瞬間の自分を、猛スピードで入れ替えます。

一番古い瞬間の自分を手放して、新たな瞬間の自分を、取り込みます。

全体としては、2秒間の集合的自分という形態は、変わりません。

変わるのは、その集合的自分を構成する、瞬間瞬間の自分たちです。

 ※Messan EdohさんによるPixabayからの画像です。

ここで「自分」という言葉について、確かめておきたいと思います。

私たちが自分と言う時、それは自分の体を基準にしています。

つまり、自分の体ではないものは、全て自分とは別の存在なのです。

自分というものは、考えている自分であると同時に、他の存在と区別された自分であるわけです。

でも、自分が他の存在と区別されるのは、この物質世界の中で、肉体と意識が結びついている時だけです。

肉体を失い、幽霊のような存在になれば、自分と他人との境目は、あやふやなものになるでしょう。

幽霊が誰かに、憑依したと考えて下さい。

一つの肉体に、二つの意識が同時に宿っているわけです。

この時、幽霊の思考は、憑依された人の思考と、区別がつかなくなります。

どれが本当の自分の考えなのかが、わかりにくくなるのです。

つまり、通常の自分という概念は、肉体を通して得たものだと、ご理解下さい。

肉体を考慮しなかった場合、自分というものは、かなり曖昧になってしまうのです。

また、瞬間瞬間の自分とか、集合体の自分という言葉も、ややこしいですよね。

同じ「自分」という言葉を使っているので、ごちゃごちゃになってしまいそうです。

わかりやすく言いますと、いろんな「自分」が含まれる、全体としての精神エネルギーこそが、本当の本物の自分だと考えて下さい。

そして、瞬間瞬間の自分だとか、集合体の自分というものは、本物の自分の一部、あるいは本物の自分の一つの側面だと、受け止めて下さい。

同じ「自分」という言葉で表現をするのは、同じ全体の一部であるという意味に過ぎません。

どういう観点で、全体の一部を眺めるかによって、いろんな「自分」が出て来るのです。

ここでちょっと、休憩にしましょう。

恐らく、頭の中が混乱して、理解するのがむずかしくなっていると思います。

お茶でも飲んで、息抜きをして下さい。

 ※Yung-pin PaoさんによるPixabayからの画像です。

休息はできましたか。
では、話を続けますね

ちょっと違う見方をしてみましょう。

机や椅子は、物質でできています。
つまり、その本質は物質エネルギーです。

それと同じように、私たちの心は、精神エネルギーだと考えて下さい。
私たちの本質は、エネルギー体なのです。

肉体のことは、考えないで下さい。
心のことだけです。

このエネルギー体は、全てがあなたの本質です。
ですから、どの部分を取ってみても、全てがあなたなのです。

ところで、あなたが認識している世界は、あなたの心の中に、構成されています。

人はみんな、同じ世界を体験しているように、思うでしょう。

でも、あなたが体験している世界は、あなたが取り込んだ情報に基づいて、あなたの心の中に、創られたものなのです。

他の人があなたと同じ世界を、体験しているように思えても、あなたとその人が感じている世界は、微妙に違うのです。

あなたの世界は、あなたにしか体験することが、できません。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像 です。

何が言いたいかといいますと、あなたが体験している世界は全て、あなたの本質である、エネルギー体の中にあるのです。

そこには、物質世界の肉体も、含まれています。

つまり、あなたの心が、肉体に宿っていると言うよりも、あなたの心の中にある肉体に、あなたが意識の焦点を、合わせているわけです。

そして、瞬間瞬間の自分というものは、全てこのエネルギー体の中にあるのです。

瞬間瞬間の自分の連なりの中を、順番に駆け巡る一つの波、あるいは粒子をイメージして下さい。

この波、あるいは粒子こそが、私たちが普段考える、自分という意識なのです。

先ほどの話に戻しまして、瞬間瞬間の自分の連なりを、駆け巡る波あるいは粒子の、時間的な大きさが、2秒間だとします。

私たちが自分だと認識しているものは、この2秒の間に含まれた、無数の瞬間瞬間の自分で、成り立っています。

そして、この2秒間の両端にある、瞬間的自分は、次々に入れ替わって行きます。

1秒先の瞬間の自分は、新たな次の瞬間に取って代わられ、1秒後の瞬間の自分は、手放されます。

そんな感じで、2秒間の自分という意識は、構成要素である瞬間瞬間の自分を、次々に入れ替えているのです。

それに応じて、今という瞬間の自分も、次々に入れ替わり、時の流れを感じるのです。

今という枠の中で、パラパラ漫画が、動画を生み出しているようなものです。

このパラパラ漫画の画像を、次々に入れ替えているのが、全体のエネルギーの中を、2秒間の自分が、駆け巡る動きです。

この動きは、一つの人生を形成します。

どこをどのように駆け巡るかによって、構成される人生が、変わって来ます。

でも、エネルギー体の中を駆け巡る流れは、一つだけではありません。

同様の波が、無数に巡っているのです。

私たちが過去や未来と考える瞬間を、あるいは全く別の動線の人生を、生きている自分が、無数に存在しているわけです。

 ※jan mesarosさんによるPixabayからの画像です。

よく、本当の自分だとか、自分探しとか言いますよね。

この場合の自分とは、エネルギー体の中を巡る一つ一つの波を、コントロールしているものを、言うのだと思います。

私たちはコントロールされた、波の人生を体験しているだけです。

時に、コントロールに逆らって、違う動きをする自由は、私たちにもあります。

しかし、コントロールに逆らう生き方をすると、何かと不自由な思いをすることになるでしょう。

何故なら、コントロールをするのは、人生から何かを学ぶためだからです。

逆らう生き方をしていると、人生から何も学べないで、終わってしまいます。

別の言い方をすれば、何も学べないという事を、学ぶのです。

この人生のコントロールをしているのが、無意識と呼ばれるものです。

無意識はエネルギー体全体に、つながっています。

無意識の自分を拡張すると、その意識はエネルギー体全部に、及ぶことになります。

ですから、無意識の領域にある自分こそが、本当の自分と言えるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

無意識の自分を、エネルギー全体の自分に拡張できれば、全体に含まれる、無数の自分の体験の記憶を、同時に持つことになるでしょう。

しかし、それは一つの肉体に、焦点を合わせた意識では、膨大過ぎて処理できない情報量です。

私たちが一人の人間として、存在しているうちは、理解できません。

でも、肉体によって孤立した経験ができるのは、今の自分だけなのです。

全体の意識は、何でも知っているように思えます。

しかし、全体の一部が孤立した状態のことは、直接はわかりません。

わからないからこそ、私たちの人生が、必要かつ重要なわけです。

自分ではつまらない人生だと思うことはあるでしょう。

でも、人生の本当の価値を知っているのは、本物の自分です。

今の自分としては、何があってもめげたりせず、自分の価値を認めて、前向きに生きて行くのが、いいでしょう。


以上が、私が考えている、自分という存在、あるいは人生というものです。

SOGI その2

人の本質は体ではなく、心にあります。

心のエネルギーが男性的であれば、自分を男性だと感じるでしょう。
女性的であれば、自分を女性だと感じます。

心のエネルギーの質と、体の性が一致しないのは、前世でその性に対する、強い執着があったのかも知れません。

でも、他の可能性もあります。
人々の価値観を変えるために、あえて心と体の性が一致しない状況で、生まれて来たということも、考えられるのです。

子供は親を選べないと言います。
でも、それは違うと思います。

この世界での暮らしは、それぞれの人の学びの場なのだと、私は考えています。

同じようなことを言われる人が、結構いらっしゃいます。
私は、その人たちの意見に賛成です。

人は優れた知性の存在です。

前世や来世があるのなら、その間、ずっと知性は維持されると思います。

その知性を持って、新たに生まれて来るのに、何も状況を選ばないとは思えません。

そもそも何故、この世界に人は、生まれて来るのでしょうか。

それは知性を刺激するようなものが、この世界にあるからでしょう。

だからこそ、この世界は学びの場なのだ、と思うのです。

実際、生まれて来た時には、それ以前の事なんか、何も覚えてはいません。

でも、そんな事は何度も経験しているでしょうから、想定した上で生まれて来るはずです。

何を学ぶのか、そのためには、どんな環境に生まれるべきなのか。

そういった目的のための舞台設定は、念入りに決めているでしょう。

ちなみに、人生設計をしている自分とは、この世界に生きていると認識している、自分ではありません。

今の私たちは肉体を通して、世界を認識していますので、意識の働きも、かなり制限されています。

細かい過去の事は思い出せませんし、将来を予見することもできません。

テレパシーによる意思疎通もできませんし、他の次元のこともわかりません。

ですから、生まれる前に人生設計を行えるのは、今の私たちで言えば、無意識と呼んでいる領域だと言えるでしょう。

 ※Karin HenselerさんによるPixabayからの画像 です。

私たちが何かを思いついたり、虫の知らせを感じたりするのは、この無意識からの連絡があるからなのです。

話を戻しますと、人は人生設計をして、生まれて来るのです。

ただ、生まれて来たら、全部忘れていますから、設計どおりに行かないことも、あるでしょう。

でも、自分の気持ちに正直に生きれば、その設計どおりの道を、歩むことになるのだと思います。

心と体の性が一致しないのも、たまたまそうなったのではなく、自ら設定した人生なのです。

その経験から学べることは、多いでしょう。

他の人生では、学べないことでもあると思います。

一方で、その人生設計の中に、自らの学びだけでなく、社会への貢献という要素も、入っているのではないかと、私は強く思うのです。

社会への貢献とは、人々の価値観を変えて、人類の集合意識を進化させる、という意味です。

それは簡単なことではありません。

がっちり固まった固定観念から、人々を解放するわけですから。

人々のために生まれて来たのに、その人たちから疎外されては、たまったものではないでしょう。

でも、それをあえて行っているのです。

みなさんは他の人たちよりも、かなりパワフルな心の持ち主なのだと思います。

みなさんは自分の全存在をかけて、世の中に問いかけているのです。

どうして、自分たちのことが、理解できないのかと。

みなさんは理解を求めます。

それは、自分たちのためのように、見えるかも知れません。

でも本当は、人々を固定観念から、解放させるためなのです。

みなさんを理解し、受け入れることができた人たちは、権力者の洗脳から解放されます。

その人たちは、何でも自分で考えて判断する力を、発揮できるようになるのです。

実際、そういう人たちが、急増していると思います。

そして、そういう人たちは力を合わせて、世の中を変えようとしています。

 ※Michal JarmolukさんによるPixabayからの画像です。

自分はそんな大それたことなんか、何もしていないと、思う方もいるでしょう。

でも、同じような戦士が、世界中にいるのです。

自分一人で、全てを変える必要はありません。

自分の家族や知人、周囲の人たちの中に、理解してくれる人ができたなら、それで十分役目は果たしていると思います。

必要なのは、あなたが一人の人間として、活き活きと楽しく過ごすことです。

みなさんが置かれた状況を、不幸な事だととらえる人がいます。

それは、歪んだ価値観です。

楽しく過ごすことは、みなさんにとっても、大切なことです。

でも、誰かを歪んだ価値観から、解放してあげるためにも、重要なことなのです。

みなさんは、むずかしい事を、考えなくてもいいのです。

今の自分をそのまま受け入れて、今の自分を心から楽しめば、それでいいのです。

それだけで、世の中は変わって行くのです。

みなさんが暗い顔になるのは、世間の歪んだ価値観を、肯定することになってしまいます。

みなさんがそんな価値観に、自分を合わせる必要はありません。

逆なんです。
みなさんの方が、人々の価値観を変えるのです。

そうすれば、性問題に限らない、あらゆる偏見を捨て去り、自由で多様性のある平和な社会が、築かれることになるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

SOGI その1

 ※Clker-Free-Vector-ImagesさんによるPixabayからの画像です。

性的指向を Sexual Orientation、性自認を Gender Identity と呼びます。

SOGI は性的指向と性自認の総称で、それぞれのアルファベットの大文字、S、O、G、I を合わせた言葉です。

一般的には、ソジと読みますが、ソギと読むこともあるそうです。

性的指向とは、好きになった相手の性のことです。

つまり、異性を好きになるのか、同性を好きになるのか、ということです。

中には、どちらの性に対しても、心が動かないという人もいるようです。

性自認とは、肉体的な性別とは関係なく、自分の性を、どのように認識しているかということです。

たとえば、体は男性なのに、心は女性だと思う人がいます。

体が女性なのに、心は男性だと認識している人もいます。

自分がどちらの性なのか、よくわからないという人も、いるかも知れません。

自分が認識している性に関係なく、肉体上の性別に従って、生きて行くというのは、かなりの苦痛だと思います。

性的指向について言えば、一般的には異性に惹かれる人が、大多数でしょう。

しかし、自分が強く心が惹かれた人が、同性であるという場合は、昔からあったはずです。

ただ、昔は口が裂けても、そんな事は言えませんでした。

そんな事を言えば、変態扱いされて、いじめや差別の対象にされてしまいます。

昔と比べると現在は、肉体の性と心の性の不一致や、同性を好きになることに対して、世の中がかなり寛容になっています。

しかし、それでもまだLGBTの人たちを、受け入れることができない人々が、結構いるのが現状です。

 ※MomentmalさんによるPixabayからの画像です。

彼らを受け入れられないのは、昔からの価値観に、がんじがらめにされている人でしょう。

古い価値観は重い鎧となって、本人からも自由を奪います。

しかし、本人は鎧の姿が、本当の自分だと思い込んでいるので、鎧を脱ごうとはしません。

だから、こういう人たちに理解してもらうのは、なかなかむずかしいと思います。

また、自分を中心とした基準しか、受け入れられない人たちも、LGBTの人たちを理解できないでしょう。

こういう人たちは、自身が同じような、つらい目に遭わないと、理解ができないのです。

これは性の問題に、限ったことではありません。

人種差別だって、同じ事情で起こるのです。

他の地域の文化や、考え方を否定する人。
見慣れないものや、聞き慣れないものは、全て否定したくなる人。

そんな人たちは、どうしても存在するのです。

これからの世界は、そういう人たちこそが、肩身の狭い思いをするものに、変わって行くでしょう。

でも、そうなるまでの間にも、性の問題で嫌な思いをする方が、出て来るのは間違いありません。

中には、それが理由で病気になったり、自らの命を絶つ人もいるでしょう。

そういう方たちに、私は伝えたい事があります。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

どうして、自分が感じる性が、他の人と違うのか。

それを病気や、一種の障害と考える人が、いるかも知れません

でも、それは違います。
みなさんは病気でもなければ、障害でもありません。

みなさんは人々の価値観を変えるために、あえて他人と異なる性の感覚を、持って生まれて来たのです。

これまでの世界は、権力者にとって都合のいい者だけが、上に上がれるようになっていました。

権力者が作った社会は、競争を煽る社会です。

そうすることで、人が自分に従うようにしているのです。

そんな社会が当たり前だと、洗脳された人たちは、自分より下の地位の人を、見つけようとします。

そうする事で、相対的に自分の地位を、上げようとするわけです。

でも結局、自分も誰かから、低く見られるわけですし、ずっと今の地位を、保てるわけではありません。

権力者が作った、価値観に従っていては、決して自由にはなれないのです。

しかし、人は自分が洗脳されているとは、なかなか考えません。

ですから、みんな、つらい思いをしながら、権力者の価値観を、受け入れ続けるのです。

だけど今、世の中は変革の時代を、迎えています。

これまで押さえつけられ、ごまかされて来た多くの問題が、世界中で噴き出しています。

コロナウィルスを初めとする、世界中の災害は、社会の歪みを浮き彫りにしました。

どんなに政府が隠そうとしても、もう隠しきれない状態です。

今の状況を乗り切るためには、人々が権力者の呪縛を逃れ、自分たちの新しい価値観の下、一致団結することが、求められています。

そんな中に生まれたみなさんは、社会に問題を投げかけているのです。

みなさんが問題なのではありません。
みなさんを認められない、社会の問題です。

みなさんの状況を理解するためには、知性が必要となります。
知性を働かせた時、人は自分で考える力を、取り戻せます。

みなさんを受け入れるためには、他人を理解し、思いやる心が必要です。
権力者のルールでは、弱者に対しての思いやりがありません。

知性を働かせ、思いやりの心を持つことで、権力者のルールが間違っていると、みんなは気がつくようになるのです。

 ※Free-PhotosさんによるPixabayからの画像です。

そもそも誰かを好きになるのに、理由なんて必要ありません。

お金持ちだから好きになったのであれば、お金がなくなれば、さよならです。

ハンサムだとか、美人だとかいう理由で好きになったなら、顔に怪我をしたらおしまいです。

スポーツ万能だから好きになったのなら、大怪我や病気で動けなくなったら、だめになります。

優しく構ってくれるから好きになったなら、相手が大切な仕事で、手が離せなくなった時、自分より仕事が大事なのだと、泣き崩れるでしょう。

本当に誰かを好きになったなら、理由を聞かれても、答えることはできません。

心が勝手に、引きつけられてしまうだけで、その理由はわからないのです。

つまり、本当に誰かを好きになるというのに、性は関係ないのです。

 ※autumnsgoddess0さんによるPixabayからの画像です。

体外離脱体験2

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

学生の頃、ひょんなことから、体外離脱を体験した私は、体外離脱を意図的に行えないかと、体外離脱について書かれた本を参考に、何度か挑戦をしました。

どういう時に体外離脱が、起こるのかと言うと、眠りと覚醒の中間状態です。

体は眠っているけれど、意識はまだ、目覚めている状態の時です。

金縛りの状態に似ていますが、金縛りの時は、緊張してしまうせいでしょうか、体を抜け出すことはできません。

意識ははっきりしているのに、肉体は動かせませんし、意識の体も動きません。

これは自分の意図に反して、そんな状態になってしまうため、驚いてしまうのでしょうね。

自分で体を抜け出そうとしている時は、わかってやっていますので、似たような状態になっても、気持ちは落ち着いています。

 ※愚木混株 Cdd20さんによるPixabayからの画像です。

どんな風になるのかと言うと、最初は足の辺りが、軽くビリビリと、痺れたような感じになるのです。

でも、長時間正座をして痺れるのとは、違います。

そんな苦痛な感じはありません。
ただ、軽くビリビリした感じがするだけです。

正確に言えば、痺れているというよりも、細かく振動しているような、感じかも知れません。

その振動している部分は、通常の感覚が、麻痺した感じです。

そこで驚いたり、慌てたりすると、我に返ると言いますか、ビリビリ感は消えてしまい、普通の状態に戻ってしまいます。

それは、野生の動物や鳥たちが、安全かどうか確かめながら、少しずつ近づいて来るような感じです。

ちょっとでも動いて、驚かせてしまうと、さっと逃げ出して、姿を消してしまいます。

とにかく、ビリビリした感じが起こったら、そのまま放置して、様子を見ておきます。

すると、ビリビリ感は次第に、上の方へ広がって来ます。

足から太もも、腰からお腹、胸から背中と、ビリビリした感じが広がるのです。

ここで体を、抜け出そうとしてはいけません。

まだ機が熟していないのに、体を抜け出そうとすると、意識の体ではなく、本物の体が動いてしまいます。

肉体の体が少しでも動いたら、ビリビリ感は瞬時にして、消えてしまいます。

一度消えてしまったビリビリ感が、もう一度戻って来るのは、むずかしいのです。

慣れている人なら、そんなことはないかも知れません。

でも、素人の場合、そこで完全に目が覚めてしまうか、再挑戦しているうちに、眠ってしまうことの方が、多いと思います。

とにかく、ビリビリ感が首の辺りまで広がって来ても、知らんふりをして、放っておきます。

すると、ビリビリ感は頭の先まで広がります。

足先から頭のてっぺんまで、すっぽりとビリビリ感に包まれた感じになるのです。

この時も、まだ動いてはいけません。

早く体外離脱を経験したくて、動いてしまうと失敗してしまいます。

この時に抜け出そうとすると、一瞬、体を抜け出せたような、感じにはなるのです。

でも、意識のどこかが肉体に癒着していて、完全に抜け出すことはできません。

背中に強力なゴムでもつけられているみたいに、すぐに引き戻されておしまいです。

肉体と意識がビリビリ感に完全に馴染んで、熟した状態になるまでは、ピクリとも動いてはいけないのです。

 ※WikimediaImagesさんによるPixabayからの画像です。

何度も同じような失敗を繰り返しながら、私は完全に肉体から、意識を離脱させることに成功しました。

その時の感覚は、初めて離脱した時と比べると、もっとリアルな感じでした。
本当に離脱したのか、疑わしくなるほどです。

部屋にはスチールの机があるのですが、その机に触れることができました。

幽霊のような存在になっているのであれば、手が突き抜けるはずです。

でも、手は突き抜けず、机に触れてその形状を、確かめることができたのです。

しかも触った感触が、肉体の手で触れるのと、全く同じでした。

机は硬くてツルッとしていて、冷たいのです。

おかしいなと思いながら、机を押してみましたが、硬くて手は突き抜けません。

私は窓から、外へ出てみようとしました。

でも、やはり窓が邪魔です。

それでも、意識の体だから、必ず突き抜けて行けるはずだと、私は思いました。

そこで、水の膜を抜けるような、イメージで挑戦してみました。

すると、あららという感じで、体は窓を通り抜けました。

その時は明け方で、外は明るくなっていました。

体外離脱の練習を、私はよく寝入りばなにしていました。

でも、そのまま眠ってしまうことが、ほとんどでした。

一方で、明け方にふと目が覚めた時は、チャンスでした。

そのまま動かないでじっとしていると、あのビリビリ感が現れることが、あったのです。

そして、この時もそんな明け方でした。

 ※kakkikoさんによる写真ACからの画像です。

私は窓の外にある、一階の屋根瓦の上に、裸足で立っていました。

普段見るのと同じ景色が、目の前に広がっています。

外には、まだ誰もいませんでした。

そよ風が気持ちよく、本当に肉体で、そこに立っているかのようです。

感覚的には、普段の世界と何一つ変わりません。
本当に体外離脱をしているのか、疑うほどでした。

その時に、ふと私は視線を落とし、そこに立っている、自分の姿を見たのです。

瓦の上に立つ足は、裸足です。
その上には、寝る時に来ていたはずの、パジャマがありません。

私は何と、パンツ一枚の姿で、屋根の上に立っていたのです。

感覚は肉体の時と、何も変わりません。
体外離脱をしないで、そこに立っているかのようでした。

私は焦りました。

自分では、体外離脱をしたつもりでした。
でも、もしかしたら体外離脱を、していないのかも知れない、と思ったのです。

窓を突き抜けて、外へ出たはずなのです。

だけど、本当はそれは妄想で、実は普通に窓から、外へ出ただけかも知れません。

そう考えると、どうしようとパニックになりました。

だって、そうでしょう?
パンツ一枚で、早朝の屋根の上に、立っているわけですよ。

もし誰かに見られたら、完全に頭がいかれていると、思われてしまいますよね。

下手をすれば、そこに住めなくなってしまいます。

これは大変だ、早く部屋に戻らないと、と焦っているうちに、はっと気がつくと、私は蒲団の中にいました。

私はちゃんと蒲団を、かぶって寝ていました。

蒲団を剥いでみると、パジャマもちゃんと着ています。

しまった、やっぱり体外離脱ができていたんだと、後悔したけど、後の祭りでした。

もう完全に目が覚めてしまったので、どうにもできませんでした。

体外離脱体験

体外離脱という言葉を、聞かれたことがあるでしょうか。

以前は、幽体離脱という表現もされていましたが、幽体という表現が、よくなかったのでしょうか。
今では、体外離脱という言い方が普通になっているみたいです。

とは言っても、体外離脱が何なのかを知らない人には、幽体離脱でも体外離脱でも、同じですよね。

体外離脱とは、意識が体から、抜け出ることを言うのです。

この時、体は眠った状態ですが、意識はしっかりと目覚めています。

よっこらしょっと起き上がった時に、何だか体が、ふわふわしたような感じがあるのです。

後ろを振り返ると、そこに自分が横になって、寝ているのを目にするわけです。

あるいは、知らない間に、意識だけが天井近くへ、浮き上がっているということも、あるようです。

この場合、下を見下ろすと、そこに眠っている自分の姿があるのです。

この状態というのは、生きたまま幽霊に、なったようなものでしょうか。

体から抜け出す時の状況は、人によって異なると思います。

でも、大体みんな、こんな感じなのではないでしょうか。

どうして、そんな事が言えるのかというと、私も体外離脱を何度か、体験しているからです。

 ※acworksさんによる写真ACからの写真です。

初めて体外離脱を体験したのは、大学生の頃でした。

当時は、一軒家の形のアパートに、同じ大学の学生四人で、暮らしていました。

四畳半の部屋が一階と二階に、それぞれ二部屋ずつあり、私は二階の西側の部屋にいました。

その時は夕方で、私は万年床の蒲団を二つに折りたたみ、それを背もたれにして座ったまま、うたた寝をしていました。

ふと目が覚めたので、私は背もたれの蒲団から体を起こし、そのまま立ち上がりました。

でも、何だかふわふわして、妙な感じでした。
高熱で寝込んだ後で、立ち上がった時に、重心が定まらないのに似ていました。

その時の部屋の空気も、変な感じでした。
水の中に潜っているような感じで、部屋の中に水が詰まっているかのようでした。

でも、体を動かすのに、水のような抵抗は感じません。
逆に、ちょっと動いたつもりが、動き過ぎてしまい、体のバランスを取るのが、大変でした。

どうも、おかしいなと思って、後ろを振り返ると、蒲団を背もたれにして座っている、自分が見えました。

私は驚きました。

でも、体外離脱のことは知っていたので、これが体外離脱なのかと、感動しました。

一階の部屋は、学生たちの溜まり場になっていて、この時も集まった友人たちが、麻雀をして遊んでいました。

その楽しげな騒ぎ声が、二階の部屋にまで聞こえていました。

私はこのままこっそり下へ行き、みんなの様子を眺めてみようと考えました。

みんなからは、私の姿は見えないはずです。
何故なら、私は幽霊みたいな状態ですから。

でも、実際はその状態の自分の姿が、他人から見えるかどうかは、わかりませんでした。

もしかしたら、いつもと同じように見えて、声をかけられるかも知れません。

どっちにしても、それは一つのデータであり、私はわくわくしました。

その時の私の部屋の扉は、閉まっていました。
でも、この状態だったら幽霊みたいに、扉を通り抜けられるかも知れない、と思いました。

ふわふわする体の体勢を整えながら、私は扉の前に移動しました。
扉は引き戸です。

 ※雰囲気イケメンさんによる写真ACからの画像です。

扉に手を伸ばした時、私の頭を、ふと不安がよぎりました。
もしかしたら、これは罠ではないのかと。

何者かが私の意識を、私の体から引き出したのではないかと、疑ったのです。

そうであれば、私がこの場を離れている間に、その何者かに私の体を、乗っ取られてしまうかも知れません。

一度疑うと、その疑いは急速に膨らみました。

私は居ても立ってもいられなくなり、急いで体に戻ろうと思いました。

でも、どうやったら戻れるのかが、わかりません。

それで、余計にパニックになってしまいました。

私は漫画みたいに、自分の体の中に飛び込めば、元に戻れるかも知れないと考えました。

それで、私は跳び上がったのです。

重力が働けば、その後、私の体はすぐに下へ落ち、その勢いで体に、飛び込めるはずでした。

しかし、そうはならず、私の体は部屋の天井まで浮かび上がり、そこから下へ降りられなくなったのです。

私は天井のそばで、手足をばたばたさせながら、宙を泳ぐようにして、何とか体の中へ入ろうと、藻掻きました。

それでも、体は浮いたまま下がりません。

私は藻掻き続けました。
もう必死です。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

自分が回転したのか、周囲が回転したのかはわかりません。

私は渦に巻き込まれたみたいに、ぐるぐる回転し、うわーっと心の中で叫びました。

そして、はっとすると、蒲団を背もたれにして座っていたのです。

私は自分が体と一つになっていることを、確かめました。

自分が動かしている手や足は、間違いなく自分の肉体の手足です。

触ってみると、いつもどおりの体でした。

立ち上がってみると、全然ふらふらしません。

部屋の中もいつもと同じで、水の中のような感覚はありません。

下からは、友人たちの声が、聞こえています。

私はしばらく部屋の中を歩き回り、自分が体に戻れたのだと、確信しました。

途端に、何て馬鹿なことをしてしまったのだろうと、とても後悔しました。

二度とないかも知れない、貴重な体験を、不安が台無しにしてしまったのです。

下の部屋へ行って、みんなが遊んでいる様子を、こっそり確かめていれば、自分が体外離脱をした証明ができたのです。

それはまさに、千載一遇のチャンスでした。

私は悔しがりながら、もう一度蒲団を背もたれにして、眠ろうとしました。

でも、すっかり目が冴えてしまって、眠ることができません。

体外離脱を体験したのは事実です。

でも、そんな体験をした喜びよりも、下の部屋へ行けなかったことの後悔で、その日の私の頭は一杯でした。

それから私は、意図的に体を抜け出す、練習を繰り返したのです。

国境をなくすには2

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 ※Deep GhotaneさんによるPixabayからの画像です。

今の社会は、一番上に位置する権力者たちが、自分たちの地位や権利を守るために、作ったものです。

権力者たちは、自分に忠実な者たちを引き上げて、自分の周囲を固めます。

引き上げてもらった者たちも、同じように、自分に従う者を引き上げて、味方にします。

同様のことが繰り返され、上の者の言葉に従うことが、当たり前という考え方が、ピラミッド社会の、裾野まで広がっています。

これは一種の洗脳なのです。

権力者は、お金で人を動かそうとします。
そのため、お金に困る人が必要です。
つまり、貧困者です。

貧困者がいなくなれば、誰もお金では言うことを、聞かなくなってしまいます。

貧困をなくそうと、きれい事を口にする、権力者はいます。

でも本気で、貧困をなくすつもりはありません。

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 ※Anja🤗#helpinghands #solidarity#stays healthy🙏さんによるPixabayからの画像です。

今の世の中は、他人と比較され、他人との競争を強いられます。
競争に負ければ悲惨な目に遭うのだと、信じ込まされます。

子供の頃から、受験戦争という形で、そういう考え方を、植え付けられるのです。

やりたい事をするために、勉強するのではありません。
いい会社に入れるように、勉強をするのです。
いい会社は多くないので、競争です。

そういう事をさせながら、それがこの社会のルールなのだと、子供たちに教え込むわけです。

特技や能力がある者は、こんな社会でも、それなりに上に、上がることができます。
でも、それができない者もいるわけです。

そういう人たちの中で、自分は無能なのだと、信じてしまう人もいます。

そんな人は、自分の立場を高くするために、誰かを蹴落とそうとする事があります。

自分よりも立場の弱い者がいることで、安心するのですね。

その結果が、いじめや差別なのです。
それは貧困にも、つながります。

そんな中で、絶望して病気になったり、自殺をする人が出て来ます。

悪い事をしてでも、生き延びようと考える者も、現れます。

あるいは社会への憎しみを、無差別にぶつけたくなる者も、現れるでしょう。

つまり、貧困や差別を生み、さらには多くの犯罪を生んでいるのは、今の世の中なのです。

全ての原因は、かさぶたのように地球全体を覆う、歪んだ社会にあるのです。

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 ※BriBraさんによるPixabayからの画像です。

競争というものは、本人たちが楽しめるのであれば、問題はありません。
互いに相手を尊敬し、褒め称えられるような、競争であればいいのです。

問題なのは、権力者のために、無益な競争を強いられることです。
そして、それによって歪んだ価値観を、すり込まれてしまうことなのです。

そういう価値観は、人間が本来持つべき価値観とは、大きくかけ離れています。

つまり、その価値観を植え付けられることで、人間としての可能性を、見失ってしまうわけです。


みんな、権力者の利益のために、騙されて利用されているのです。
これは世界中の人々に、言えることです。

みんながそのことに気がつけば、今の社会構造は、大きく変化するでしょう。

人が人として生きる喜びを、感じられる社会になるのです。

見た目はこれまでと、それほど変わっていないように、見えるかも知れません。

しかし、働く人々の心の中が、以前とは全然違うものになっているでしょう。

他人と競争しながら、お金を稼ぐというのではなく、自分がやりたい事をすることで、他の人にも喜んでもらう。

そこに生き甲斐を感じて、働くような社会です。

そんな社会が、世界中の国で作られるようになれば、自然と国境は意味を失って行くでしょう。

かつて多くの国が集まっていた日本は、平和な一つの国になりました。

それと同じように、世界は国境を越えて、地球という一つの世界を、築くことになるのです。

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 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

国境をなくすには1

 ※K-factoryさんによるイラストACからの画像です。

国と国の間には、国境があります。
それは、それぞれの国の主権を、守るためのものです。

言い換えれば、他国からの侵入を許さない、意思表示であります。

でも、世界が本当の意味で一つになるには、国境はない方がいいのです。

日本も戦国時代と呼ばれた頃、多くの戦国大名たちが、領土の拡張、奪い合いを繰り返し、せめぎ合っていました。

江戸時代になると、徳川幕府が全国を支配しました。

しかし、各地域はそれぞれの大名が治め、領地と領地の間は、国境として関所が置かれて、人々の出入りを管理していました。

明治時代になると、大名ではなく知事がその地域を、治めることになりました。

国境は県境となり、人々は日本中どこにでも、自由に移動をすることが、できるようになったのです。

その延長に、今の日本があります。

 ※旅先の写真家さんによる写真ACからの画像です。

今の日本は、各地域の独自の文化が、残されています。

地域の人は、自分たちの暮らしや文化を、大切にしています。

一方で、国民の誰もが、自分は日本人だという、意識を持っています。

どこへ行っても日本ですから、どこの県へ行くにも、抵抗感は全くありません。

現在の世界の国々も、これと同じように、国境というものをなくすか、あるいは無意味なものにすればどうかと、私は思うのです。

別に国境などなくても、それぞれの地域に暮らす人々が、平和に暮らせるのであれば、何も問題はないでしょう。

EUは加盟国同士で国境を開放しています。

でも、それはあくまで経済圏という概念であって、一つの国になったわけではありません。

経済格差も大きく、これからと言ったところでしょう。

でも、方向性は間違っていないと思います。

他の国々も、一つの国のようになれればいいのですが、まずはお互いを理解し、尊敬し合えるようになる、必要があるでしょう。

それに、いきなり国境をなくしたりすると、悪い企みを持った者たちが、自由に行き来するようにもなります。

平和のための国境開放ですから、それは防がねばなりません。

ですから、そういう者がいないような、世の中にしながら、国境をなくしていくというのが、いいと思います。

これはEUでも、考えねばならないことでしょう。

では、どうやって悪い企みを持つ者を、なくすのでしょうか。

 ※PublicDomainPicturesさんによるPixabayからの画像です。

誰も悪いことをするために、産まれて来てはいません。
産まれた時は、誰もが可愛い赤ちゃんです。

それなのに、成長の段階で、悪いことをするようになる人が、出て来るのです。

でも、それにはそうなるだけの理由があるはずです。

そして、その多くの原因は、貧困や差別にあると、私は考えています。

つまり、世界中の貧困や差別をなくせば、いいのです。
そうすれば、自ずと犯罪は減って行くでしょう。

また、貧困がなくなれば、国の経済格差も埋まって行くでしょう。

犯罪が減り、経済格差もなくなれば、国境を厳格に考える理由が、なくなるのです。

では、貧困や差別は、どうすればなくなるのでしょうか。

貧困や差別が生まれる原因を、探ればいいのです。
これらの原因は同じです。

それは、エゴイズムです。

自分だけがいい思いをしたい、自分だけが優位でいたい、という思いです。

 ※Ay SさんによるPixabayからの画像です。

砥部焼(とべやき)

 ※蒲鉾さちこさんによる写真ACからの画像です。

今日は家内と義母、私の三人で、砥部焼のイベントへ行って来ました。

松山から国道33号線を南へ進むと、久万高原の山があります。
その山の麓辺りが砥部の町で、古くから焼き物が作られていたと言います。

砥部焼の特徴は、厚ぼったくてぽってりした感じです。
とても丈夫で、他の食器と喧嘩をしても、まず負ける事はなさそうです。

伝統的な柄は、白地に紺の唐草模様ですが、最近は若い作家が増えて、いろんな模様や絵柄のものがあります。

特に女性作家が増えているそうです。

伝統的な模様は、力強くて男性的です。
それに対し、現代風の図柄や模様は、柔らかく温もりのある、女性的なものが多いようです。

今回は義母や家内が気に入った、お皿やカップが見つかったので、みんな大満足でした。


ところで、砥部焼の歴史を調べてみると、とても面白いのです。

砥部は、元は砥石で有名な土地だったそうです。

その砥石を切り出す時に出て来る、砥石の屑の処理がかなりの重労働で、村人たちから苦情が出るほどだったと言います。

江戸時代には、砥部は松山ではなく、大洲の殿さまの領地でした。

当時の大洲は経済的に、かなり大変だったそうです。

それで、砥石の屑で磁器ができる、という話を聞いた殿さまが、1775年 (安永4年) に、家臣に磁器を作るよう、命じたそうです。

しかし、初めての事なので、作業は順調に進まず、何度も失敗が繰り返されました。

そして、2 年半後の1777年 (安永6年)、ようやく白い磁器が誕生しました。
これが砥部焼の始まりです。

この頃の白というのは、少し灰色がかった白だったと言います。

しかし 1818年 (文政元年) には、新たな陶石が発見され、より白い磁器が作られるようになったそうです。

 ※happyjp2020さんによる写真ACからの画像です。

砥部焼が厚手に作られているのは、実用的であるためです。

砥部焼は壊れにくく、手に持っても料理の熱さを、感じにくいのです。

逆に言えば、料理が冷めにくいわけです。

値段も手頃で、庶民が購入しやすいというのも、特徴だそうです。


そうは言いましても、最近の砥部焼の中には、そんなに厚みがない物もあります。

まあまあいいお値段の物も、結構あります。

単なる実用品ではなく、芸術性も備えた実用品という物ですね。

その値段を高いと見るか、高くないと見るかは、買い手の価値観によるでしょう。

芸術性やオリジナリティを、評価しない人にとっては、何でそんな値段なのと、憤慨したくなるかも知れません。

しかし、その作品をとても気に入った人は、全然高くないと思うでしょう。

また、作家あるいは職人たちが、その作品を作るために、どれだけの努力と工夫、そして忍耐を続けて来たのかと、考えられる人は、妥当な値段だと思うに違いありません。

食器に限った話ではありませんが、どんな物でも、それを作った人がいるわけです。

そして、それをどんな想いで作ったのかを考えると、安い値段で買うのは、申し訳ない気持ちになってしまうでしょう。

自分が作品を作る側だったら、これより安い値段を言われたら、どう思うだろうと考えると、この値段は高過ぎるとは、なかなか言えないと思います。

とは言っても、現実の話として、手持ちのお金がそこまでなければ、いくら妥当な値段だと思っても、それを購入する事はできません。

作家の方にしても、作品を評価してもらえても、買ってもらえなければ意味がありません。

ここの所のさじ加減が、むずかしいのでしょうね。

しかし、毎日使う物であれば、見た目は高くても、高いとは思えなくなってしまいます。

少し無理をしたら買えなくはない、というような値段であれば、私なら絶対に買ってしまいます。

何故なら、それで毎日の暮らしが楽しくなるのであれば、逆に安いと思うからです。

同じ物を食べるにしても、食器が違うだけで、美味しさが変わって来ると思います。

生活に彩りを添えてくれる物は、有り難い物です。

実際に購入するかどうかは別にして、そういう物の価値というものを、確かめて楽しめば、それだけでも人生は、豊かなものになるでしょう。

作用・反作用の法則

作用・反作用の法則って、聞いたことがありますよね。
中学校の理科で習った、物理法則です。

どんな法則かと言うと、二つの物体が互いに力を及ぼし合う時、それぞれの力は向きが反対で、大きさが等しいというものです。

文章で説明すると、わかりにくいですよね。

 ※Clker-Free-Vector-ImagesさんによるPixabayからの画像です。

簡単に言えば、壁を押したとします。

その時の力は、どのくらいでもいいのですが、たとえば3の力で、押したとしましょう。

すると、その時に自分は、壁から3の力で、押し返されているのです。

杭に縛ったロープを、4の力で、引っ張ったとしましょう。
その時、自分はロープから、4の力で、引っ張られているわけです。

これって、何だか鏡に自分の姿を、映しているみたいですね。

 ※Traumland-deさんによるPixabayからの画像です。

さて、この作用・反作用の法則ですが、物理的な事柄だけでなく、人生にも同じことが、言えるのではないかと思うのです。

たとえば、あなたが誰かに親切にして、その人が喜んでくれたとしましょう。

その時の相手の喜び具合で、あなたが感じる喜びも、変わると思います。

相手がとても喜んでくれたら、あなたもすごく嬉しいでしょう。

ちょっとしか喜んでくれなかったら、嬉しいけど、ちょっと残念という感じですよね。

 ※PezibearさんによるPixabayからの画像です。

もし、あなたが誰かと喧嘩をして、その人のことを嫌ったとします。

当然、相手の方も、あなたのことを嫌うでしょう。

あなたが相手をとことん嫌って、顔を見ても、挨拶すらしないとしましょう。

きっと、相手も同じような態度を、見せるでしょうね。

 ※LiveLaughLoveさんによるPixabayからの画像です。

あなたが大人の対応で、喧嘩はしたけれど、挨拶ぐらいはちゃんとしたとします。

すると、相手もそれに応じた態度を、見せるでしょう。

あなたが相手に、働きかける時だけでなく、逆に働きかけられた時にも、同じ事が言えます。

何かをしてもらった時、あなたの喜び具合が、相手の反応につながります。

嫌な事をされた時の、反応も同じです。

あなたが淡々としていれば、大きな騒ぎにはなりません。

個人と個人の関係だけでなく、あなたが置かれた環境にも、言えることす。

あなたが仕事の都合などで、暮らすことになった町が、あるとしましょう。

しかし、そこは不便な所で、欲しい物を手に入れるのも、大変です。

その町に対する、あなたの気持ちは最悪です。

そんな時には、町の人々のあなたを見る目も、嫌悪に満ちているように感じます。

でも、誰かに声をかけられ、喋っているうちに、あなたの気持ちは変わります。

気がつけば、自分の方から町の人に、挨拶をするようになりました。

不便だと思っていた町も、自然が多くて、癒やされる感じです。

また、手に入らない物は、自分たちで作るという人たちを見て、面白いと思いました。

あなたはいつの間にか、この町が大好きになっていました。

このまま、ここに住みついても、いいかなとまで、思うようになりました。

 ※スーパーパパさんによる写真ACからの写真 です。

どうですか。
こんなのも、作用・反作用の法則でしょ?

この世界は、右と言えば、左があります。
前と言えば、後ろがあります。
上と言えば、下があります。

光と言えば、闇があります。
闇とは、光がない状態のことです。

あなたと言えば、あなたでないもの全てがあります。

そこには、人間も動物も家も自然も、あなた以外の何でも含まれます。

この世界は何かを選ぶと、同時に、それに反するものが決まります。

何かを指定することで、その何かと、そうでないものとの関係が、勝手にできてしまうのです。

あなたという存在があれば、必ずあなた以外のものが、あるわけです。
そして、両者の間には関係が生まれます。

そこには常に、作用・反作用の法則が働くのです。

 ※Alexas_FotosさんによるPixabayからの画像です。

あなたが微笑みを向ければ、微笑みが返って来ます。

あなたが怒りをぶつければ、怒りが投げ返されるでしょう。

ポジティブな思いも、ネガティブな思いも、それぞれが作用・反作用の法則で、自分に見合ったものを、引き寄せるのだと考えて下さい。

人はポジティブな思いも、ネガティブな思いも、両方持っています。

ですから、人生はいい事もあれば、悪い事もあるのです。

できるだけ、ネガティブな思いを手放して、心の中をポジティブな思いで、一杯にしましょう。

そうすれば、あなたの人生は、喜びに満ちたものになるでしょう。

作用・反作用の法則です。
忘れないで下さい。