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私という存在 その4

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 ※PrawnyさんによるPixabayからの画像です。

私たちは時の流れの中を、生きています。

その中で、私たちが現実だと認識できるのは、今という瞬間だけです。
その今も、次の瞬間には過去になってしまいます。

果たして、過去はどこへ行ってしまうのでしょうか。
もう用済みになったので、消えてしまうのでしょうか。

また、未来はどこから来るのでしょう。
今この瞬間に、未来の世界は存在しているのでしょうか。

存在しているとすると、未来の世界から見た私たちは、過去の存在です。

過去が消え去るのであれば、未来の世界から見て、過去になる私たちは、消えていないといけません。

私たちからすれば、未来こそ存在するのかわからない、あやふやなものです。

同じことが、過去についても言えます。
過去は文字通り、過ぎ去ったものであり、消えたも同然です。

しかし過去は、確かに存在していました。
その過去から見ると、私たちは未来の存在です。
つまり、あやふやな存在なのです。

でも私たちは、こうしてちゃんと存在しています。

そこで、全ての瞬間が消えることなく、存在していると考えてみます。

過去や未来があやふやに思えるのは、認識できないだけだと理解すれば、辻褄は合います。

 ※PrettysleepyさんによるPixabayからの画像 です。

ここで1年前の自分と、今の自分、そして、1年後の自分を考えてみましょう。

3人の自分は、同時に存在しています。
ただ、それぞれが存在している瞬間が、別々なので、直接出会うことはありません。

だけど、1年前と今と1年後の自分が、同時に存在しているのです。

それだけではありません。
1年前と今の間の、数え切れない瞬間瞬間の、自分というものがあるわけです。

それは今と1年後の間でも、同じ事です。

イメージできるでしょうか。
自分というものが、どんなものなのか、わけがわからなくなったのでは、ありませんか。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

ちょっと、ここで話を変えてみましょう。

私たちは、時の流れを感じています。
また、私たちが認識できるのは、今という瞬間だけです。

私たちは、時の流れの中で、今という瞬間にだけ、存在しているのでしょうか。

もしそうであるのなら、私たちはどうやって、時の流れを感じるのでしょうか。

固定された一瞬だけの存在であれば、それは時間が止まっているのと同じです。
そこには、時の流れはありません。

思考することも、何かを感じることもないでしょう。

私たちが何かを考えたり、時の流れを感じられるのは、どうしてなのか。

それは、今の瞬間に前後した、別の瞬間の自分と連動しているからだと、私は考えます。

先に述べましたように、瞬間瞬間の自分というものが、存在しているとイメージしてみて下さい。

それぞれの瞬間の自分は、完全に独立分離しているわけではありません。
前後の瞬間の自分と重なることで、そこに瞬間の自分の集合体を形成します。

この集合体こそが、私たちが普段、自分と感じているものなのです。

その集合体に含まれる瞬間の自分とは、どのくらいあるのかは、わかりません。

ここでは適当に、今という瞬間を中心に、前後1秒ずつの間に含まれる、全ての瞬間の自分と、しておきましょう。

この2秒の間の集合的自分は、その構成要素である瞬間瞬間の自分を、猛スピードで入れ替えます。

一番古い瞬間の自分を手放して、新たな瞬間の自分を、取り込みます。

全体としては、2秒間の集合的自分という形態は、変わりません。

変わるのは、その集合的自分を構成する、瞬間瞬間の自分たちです。

 ※Messan EdohさんによるPixabayからの画像です。

ここで「自分」という言葉について、確かめておきたいと思います。

私たちが自分と言う時、それは自分の体を基準にしています。

つまり、自分の体ではないものは、全て自分とは別の存在なのです。

自分というものは、考えている自分であると同時に、他の存在と区別された自分であるわけです。

でも、自分が他の存在と区別されるのは、この物質世界の中で、肉体と意識が結びついている時だけです。

肉体を失い、幽霊のような存在になれば、自分と他人との境目は、あやふやなものになるでしょう。

幽霊が誰かに、憑依したと考えて下さい。

一つの肉体に、二つの意識が同時に宿っているわけです。

この時、幽霊の思考は、憑依された人の思考と、区別がつかなくなります。

どれが本当の自分の考えなのかが、わかりにくくなるのです。

つまり、通常の自分という概念は、肉体を通して得たものだと、ご理解下さい。

肉体を考慮しなかった場合、自分というものは、かなり曖昧になってしまうのです。

また、瞬間瞬間の自分とか、集合体の自分という言葉も、ややこしいですよね。

同じ「自分」という言葉を使っているので、ごちゃごちゃになってしまいそうです。

わかりやすく言いますと、いろんな「自分」が含まれる、全体としての精神エネルギーこそが、本当の本物の自分だと考えて下さい。

そして、瞬間瞬間の自分だとか、集合体の自分というものは、本物の自分の一部、あるいは本物の自分の一つの側面だと、受け止めて下さい。

同じ「自分」という言葉で表現をするのは、同じ全体の一部であるという意味に過ぎません。

どういう観点で、全体の一部を眺めるかによって、いろんな「自分」が出て来るのです。

ここでちょっと、休憩にしましょう。

恐らく、頭の中が混乱して、理解するのがむずかしくなっていると思います。

お茶でも飲んで、息抜きをして下さい。

 ※Yung-pin PaoさんによるPixabayからの画像です。

休息はできましたか。
では、話を続けますね

ちょっと違う見方をしてみましょう。

机や椅子は、物質でできています。
つまり、その本質は物質エネルギーです。

それと同じように、私たちの心は、精神エネルギーだと考えて下さい。
私たちの本質は、エネルギー体なのです。

肉体のことは、考えないで下さい。
心のことだけです。

このエネルギー体は、全てがあなたの本質です。
ですから、どの部分を取ってみても、全てがあなたなのです。

ところで、あなたが認識している世界は、あなたの心の中に、構成されています。

人はみんな、同じ世界を体験しているように、思うでしょう。

でも、あなたが体験している世界は、あなたが取り込んだ情報に基づいて、あなたの心の中に、創られたものなのです。

他の人があなたと同じ世界を、体験しているように思えても、あなたとその人が感じている世界は、微妙に違うのです。

あなたの世界は、あなたにしか体験することが、できません。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像 です。

何が言いたいかといいますと、あなたが体験している世界は全て、あなたの本質である、エネルギー体の中にあるのです。

そこには、物質世界の肉体も、含まれています。

つまり、あなたの心が、肉体に宿っていると言うよりも、あなたの心の中にある肉体に、あなたが意識の焦点を、合わせているわけです。

そして、瞬間瞬間の自分というものは、全てこのエネルギー体の中にあるのです。

瞬間瞬間の自分の連なりの中を、順番に駆け巡る一つの波、あるいは粒子をイメージして下さい。

この波、あるいは粒子こそが、私たちが普段考える、自分という意識なのです。

先ほどの話に戻しまして、瞬間瞬間の自分の連なりを、駆け巡る波あるいは粒子の、時間的な大きさが、2秒間だとします。

私たちが自分だと認識しているものは、この2秒の間に含まれた、無数の瞬間瞬間の自分で、成り立っています。

そして、この2秒間の両端にある、瞬間的自分は、次々に入れ替わって行きます。

1秒先の瞬間の自分は、新たな次の瞬間に取って代わられ、1秒後の瞬間の自分は、手放されます。

そんな感じで、2秒間の自分という意識は、構成要素である瞬間瞬間の自分を、次々に入れ替えているのです。

それに応じて、今という瞬間の自分も、次々に入れ替わり、時の流れを感じるのです。

今という枠の中で、パラパラ漫画が、動画を生み出しているようなものです。

このパラパラ漫画の画像を、次々に入れ替えているのが、全体のエネルギーの中を、2秒間の自分が、駆け巡る動きです。

この動きは、一つの人生を形成します。

どこをどのように駆け巡るかによって、構成される人生が、変わって来ます。

でも、エネルギー体の中を駆け巡る流れは、一つだけではありません。

同様の波が、無数に巡っているのです。

私たちが過去や未来と考える瞬間を、あるいは全く別の動線の人生を、生きている自分が、無数に存在しているわけです。

 ※jan mesarosさんによるPixabayからの画像です。

よく、本当の自分だとか、自分探しとか言いますよね。

この場合の自分とは、エネルギー体の中を巡る一つ一つの波を、コントロールしているものを、言うのだと思います。

私たちはコントロールされた、波の人生を体験しているだけです。

時に、コントロールに逆らって、違う動きをする自由は、私たちにもあります。

しかし、コントロールに逆らう生き方をすると、何かと不自由な思いをすることになるでしょう。

何故なら、コントロールをするのは、人生から何かを学ぶためだからです。

逆らう生き方をしていると、人生から何も学べないで、終わってしまいます。

別の言い方をすれば、何も学べないという事を、学ぶのです。

この人生のコントロールをしているのが、無意識と呼ばれるものです。

無意識はエネルギー体全体に、つながっています。

無意識の自分を拡張すると、その意識はエネルギー体全部に、及ぶことになります。

ですから、無意識の領域にある自分こそが、本当の自分と言えるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

無意識の自分を、エネルギー全体の自分に拡張できれば、全体に含まれる、無数の自分の体験の記憶を、同時に持つことになるでしょう。

しかし、それは一つの肉体に、焦点を合わせた意識では、膨大過ぎて処理できない情報量です。

私たちが一人の人間として、存在しているうちは、理解できません。

でも、肉体によって孤立した経験ができるのは、今の自分だけなのです。

全体の意識は、何でも知っているように思えます。

しかし、全体の一部が孤立した状態のことは、直接はわかりません。

わからないからこそ、私たちの人生が、必要かつ重要なわけです。

自分ではつまらない人生だと思うことはあるでしょう。

でも、人生の本当の価値を知っているのは、本物の自分です。

今の自分としては、何があってもめげたりせず、自分の価値を認めて、前向きに生きて行くのが、いいでしょう。


以上が、私が考えている、自分という存在、あるいは人生というものです。