その幸せ、本物ですか その1
幸せは苦労しないと手に入らないし、誰もが幸せになれるわけではないと、考えていませんか。
たとえば、受験戦争を勝ち抜いて、念願の大学生になれるのは幸せなことだと思うのでしょうか。
そう思うのであれば、大学に入れなかった人たちのことは、気の毒に思えるでしょう。
大手企業に就職が決まった時に、自分は幸せだと思う人は、なかなか仕事が見つからない人たちを、哀れに思うかもしれません。
結婚に憧れても、相手があってのことですから、いい人が見つからないと、結婚はできません。
そんな中で結婚相手を見つけた時には、有頂天になるでしょう。
おめでとうと言ってくれる、独身の知人たちが、自分たちを羨ましがっているように、見えるかもしれません。
確かに、苦労して大学に入れたり、大手企業に就職できたり、結婚ができた時には、喜びで一杯になるでしょう。
それで自分は幸せだと受け止めたくなるのでしょうが、このような幸せとは条件つきのものであり、状況が変わると脆くも崩れ去ってしまうものです。
たとえば、せっかく入学した大学も、授業についていけなくて、留年するかもしれません。
一緒に入ったはずの者たちが、上に進級できるのに、自分だけが同じ所に取り残されるのです。
そこで奮起できればいいのですが、同じことが繰り返されると、どんどん自信を失って、入学した時の喜びは、どこかに消え失せるでしょう。
大手企業に就職して喜んでいたのに、無理な仕事を押しつけられて、寝る間もなくし、心身がぼろぼろになったら、どうでしょうか。
こんなはずでは、なかったのにと思うでしょう。
あるいは、毎日毎日機械のように、同じ作業の繰り返しで、面白みが一つもなければ、それを幸せだと感じるでしょうか。
結婚をした時には、人生で最大の喜びだと思っていたのに、その結婚が破綻してしまうと、どうでしょう。
喜びの度合いが大きいほど、それが壊れた時の落ち込みは、激しいものとなるでしょう。
心は深く傷つき、自分は二度と幸せにはなれないと、思えるかもしれません。
でも、これは間違っています。
そもそもの前提が違っているのです。
幸せとは、苦労して手に入れるものではありません。
それなのに、幸せとはこういう状況のことだと、決めつけてしまうから、状況が変わると不幸に陥ってしまうのです。
自分は幸せだと思っていても、その幸せが何かにすがることで成り立っていたならば、それは本物の幸せとは言えません。
本物の幸せは、何にもすがる必要がないのです。