> 社会 > 学校・教育 > 教えるということ その1

教えるということ その1

この記事は4で読めます。

人に何かを教える時、そうかわかったぞと、その人が大きくうなずく姿を、期待すると思います。

自分が教えたことを、相手が理解してくれると、嬉しいからです。

でも実際には、なかなかわかってもらえないことが、少なくありません。

どうでもいいことならばともかく、大切なことをわかってもらえないと、いらいらしてしまいます。

挙げ句の果てには、こいつは何て頭の悪いやつなんだろうと、理解してもらえないのは相手のせいだと、一方的に決めつけてしまいます。

しかし、それでは相手に教えるということが、できなくなってしまいます。

人はそれぞれ生まれ育った環境が違いますし、体の発達状態も違います。

同じことを同じ時間内に理解しろと言われても、それができる者とできない者がいるのは、当たり前のことなのです。

理解するための下地がなければ、なかなか理解することはできません。

それでも、時間を十分にかければ、いずれは理解してもらえるはずです。

問題なのは、時間制限があるということなのです。

学校では決められた時間ないに、決められた内容を習得しなければなりません。

個人個人の状況は無視して、全体を同じように取り扱います。

その結果、理解ができる者はよくて、できない者は悪いと、単純に区別されてしまい、理解できない者には、頭が悪いというレッテルが貼られます。

一回言ってわかる者もいれば、五回言わなければならない者もいますし、十回以上言っても、なかなかわからない者もいるでしょう。

でも、とにかく繰り返して教えることで、いずれ理解することができるのであれば、理解ができるまで、根気強く教えればいいのです。

確か、北欧の小学校だったと思いますが、生徒が学習すべきことを習得できなければ、留年させます。

その子が本当に理解できるまで、次の段階へ上がらせないのです。

同じ年齢の子供よりも、上に上がるのが遅れてしまうので、日本人的には可哀想に見えますが、理解できないまま上に上がっても、もっと理解ができなくなって、結局はわけがわからないまま、社会へ放り出されることになるのです。

どちらが本当に可哀想なのかは、よく考えればわかることです。

それに留年する子が珍しくないので、留年する子が自分を悪く見ることもないようです。

日本の場合、何でも他の子と同じでなければいけない、という考え方があるため、何がその子にとって本当にいいのか、という観点から外れてしまいがちのように思います。

教えることの問題が、もう一つあります。

それは教えたことによる、成果を期待することです。

しかも、できるだけ早くに成果を上げることを、教える側が期待するのです。

親や先生が子供に大切なことを教えても、それがすぐに反映されるとは限りません。

しかし、親や先生の知らないところで、子供がその大切なことを実践している、ということがあるのです。

また、親や先生が年老いてから、その子供が教えられたことに目覚めることもあるでしょう。

要は、その子が教えられたことを、活かせる時がくればいいのです。

それを、親や先生が確かめる必要はありません。

確かめられれば嬉しいでしょうが、それはその子自身の問題であり、その子がいつ花開くかは、その子に任せられているものです。

自分自身を振り返れば、そのことがよくわかると思います。

教えた側が、いつかその教えが必ず花開くだろうと信じて、教えればいいのです。