死を覚悟する その3
テレビゲームは、それが終了しても、自分という存在が確保されています。
つまり、ゲームが終了したからと言って、ゲームを楽しんでいた自分が、消滅するわけではないのです。
ゲームの中のキャラクターは、ゲームが終わると、そこでおしまいになります。
でも、ゲームをしていた人自身は、ゲーム機の前に座ったまま、自分が楽しんだゲーム内容を、振り返るのです。
映画にしても同じですね。
映画が終わると、そこで物語は終了し、映画の中の登場人物の動きは、そこで止まってしまいます。
でも、映画を観ていた人は、映画の感動を胸に、その後も活動を続けます。
これと同じように、人生を一種のゲームや映画と見なすならば、人生が終わった後も、体験した人生を振り返る、自分の存在が必要です。
つまり、人生を終えても、その人自身が消滅するわけではない、という事実が必要になります。
言い換えれば、それはこの世界とは別の、いわゆる、あの世があるということですね。
あの世があると考えるのか考えないのか、それは人によっていろいろでしょう。
どのように考えても、それはその人の自由です。
ただ、あの世があると考える人と、考えない人とでは、この世で活動している自分というものや、自分が置かれた世界についての、受け止め方が全く異なるでしょう。
あの世があるのかという議論は、脇に置いて考えると、あの世があると受け止める方が、この世での自分を、客観的に眺めることができると思います。
客観的に眺めるということは、離れた所から冷静に見ることですから、離れた所がなければ、できません。
世界がこの世しかなく、自分の存在は、この世にしかないと限定してしまいますと、この世にいる自分を、客観的に見ることはできません。
どんなに客観的に見ようとしても、土台がこの世にあるわけですから、本当の意味で客観的には、なり得ないのです。
経済的に苦しい。
周囲からどんな目で見られるのか。
みんなと同じような楽しい思いができない。
そんな気持ちが絡んで来ると、自分自身をそんな価値観を基準に、見てしまいがちになります。
もちろん、この世やあの世など関係なく、世間のことなど全く気にしないで、我が道を行くとばかりに、人生を歩んで行く人もいます。
でも、そういう人は、かなり強い精神力を、持ち合わせている人なのです。
世の中の価値観で生きている人が、同じようにするのは、むずかしいと思います。
そんな人たちが、我が道を行こうとするならば、世の中の価値観に縛られず、客観的に自分を見つめることが、求められます。
あの世の存在を前提にすることで、自分を客観的に見ることができるのならば、あの世を大いに活用すれば、いいのではないでしょうか。
あの世を考えることが、宗教につながると、警戒する人もいるでしょう。
でも、宗教とは関係ありません。
宗教は人々から思考力を奪います。
疑うことを許しません。
有無を言わさず、神への従順を求めます。
自分であの世について考えるのは、個人の自由です。
あの世なんて、ないかもしれないと思っても、責められることはありません。
あの世がどんな所なのか、それぞれが好きなように、想像していいのです。
思考の主導権、選択権は、常に自分自身にあります。
自分の自由意志によって、苦しみの人生を喜びの人生に、変えることができるのなら、そうすることに何の問題があるのでしょうか。
強制はしませんが、人生に悩む人には、あの世の存在と、自分というものについて、一度深く考えてみることをお勧めします。