食べることの意味 その2
食べることで、食べられる側のことを、気の毒に思うのは、そこに心の存在を認めるからです。
つまり、心を持つ自分と同じ存在だと理解して、相手に親近感を抱くからです。
親近感が強くなると、同じ地球に暮らす仲間だと、思うようになるでしょう。
そんな相手を食べることなどできません。
私たちが食べ物を食べることができるのは、そこに心の存在を認めないからです。
食べる対象となるものは、人間が自由に扱っていいものだと、認識しているのです。
でも、心があるとみなした相手を、理由もなく食べることはできません。
他に食べ物がないのであればともかく、代わりの食べ物があるのであれば、心がある生き物を、無理に食べる必要はないと、思うようになるに違いありません。
そうなると、人は次第に肉を食べたいと思わなくなり、魚や卵も食べなくなるでしょう。
では、植物は食べてもいいのでしょうか。
動物には心はあっても、植物には心がないと言えるのでしょうか。
そんなことはありません。
植物にだって、心はあります。
それどころか、土や水、空気にだって心はあるのです。
心と考えると、わかりにくいでしょうから、エネルギーととらえて下さい。
全てのエネルギーが、精神エネルギーと同じだと考えれば、土や水、空気にも心があると、理解できるでしょう。
つまり、地球にも心があり、宇宙にも心があるということです。
私たちは、その心を持つ空気を吸い込み、心を持つ水を飲みます。
でも、相手に害を及ぼしているという感覚はありません。
実際、私たちが息をしたって、水を飲んだって、相手は何も変わりません。
私たちは空気や水の、一部を利用させてもらっているだけなのです。
植物についても、同じように見ることができます。
植物も一つの苗や、一本の樹木を、一つの命、一つの心と見るのではなく、全体が一つの存在だと考えれば、その一部を分けてもらっているわけです。
だから、動物と比べると、植物を食べることには、抵抗感が少ないのです。
それでも、人間が植物を好きなようにできると見るのは、植物に対して失礼でしょう。
やはり感謝の気持ちを持つ必要があると思います。
食べるということは、体に必要な栄養を摂取するということだけでなく、その人が抱いている世界観が、表現されたものでもあります。
それは、いいとか悪いとか言うものではありませんし、こういう食事をするべきだと、いうことでもありません。
その人が自分や世界を、どのように理解しているのか、というだけのことです。
その人の理解度に応じて、食事内容や食事方法が、変わって来るわけです。
理解度が異なる相手に、食事とはこうだと言うのは、考えの押しつけであり、間違いです。
私が言いたいのは、世界観の変化に伴い、食事も変わって来るだろう、ということです。
世界観が変わるということは、その人の精神エネルギーの状態が、変わるということだと思います。
心とリンクしている体もエネルギーですから、心のエネルギー状態が変われば、体のエネルギー状態も、変化すると思われます。
そうなると、無理に肉食をやめなくても、自然に体が、肉を必要としなくなるかもしれません。
さらに人のエネルギー状態が変化すると、植物すら食べなくなっても、エネルギーの補給ができるようになる可能性も、あると思います。
と言うのは、幽霊は物質的な食べ物を、必要としないからです。
体を構成するエネルギーの状態が、幽霊のエネルギーに似てくれば、空間からエネルギーを補給するように、なるでしょう。
昔、仙人は霞(かすみ)を食べて生きていると、言われていました。
この霞とは、空間のエネルギーではないかと思うのです。