食べることの意味 その1
食事は人間にとって、体を維持するための行為であるとともに、人生の大きな楽しみの一つでもあります。
病気や怪我などで、思ったとおりに食事ができなくなると、人生がとても味気ないものに、なってしまいます。
偏った食事は脳の働きにも害を及ぼし、精神の不安定を招きます。
逆に、美味しい食事は、落ち込んだり腹を立てている人の、心を癒やしてくれます。
普段は当たり前のように思っている食事が、何かの事情で採れなくなると、食事の有り難みが身に染みることでしょう。
食事は生きるための力であり、生きることの喜びです。
しかし、最近は栄養のバランスよりも、見た目や値段の安さ、手軽さなどが重視され、様々な添加物の入った、ファーストフードがもてはやされています。
腹に入る物であれば、何でも同じだろうという感覚なのでしょう。
また、濃い味や調味料の味が癖になり、素材を生かした薄味というものは、物足りなく思われてしまいます。
流行り物であったり、経済的な事情から、ということもあるのでしょうが、やはり体に取り込む栄養分ですから、若いうちから食事には、気を配る習慣をつけた方が、いいと思います。
食べるということは、基本的には他の生き物の、生命をいただいているということです。
昔の人は、そのことを理解していましたから、食べるということに、感謝を示していました。
日本人が食事の前に手を合わせて、いただきますと言うのは、その名残です。
西洋の人が、食事の前に手を合わせて、神に感謝する場面は、テレビや映画でも観ることがありますね。
でも、日本人はあらゆるものに、魂が宿ると考えますから、神に感謝と言うよりも、食材を提供してくれることになった、魂に感謝しているのではないかと思います。
いずれにしても、食べるということを、当たり前に考えるのではなく、食べる機会を得られることに、感謝するという気持ちは、忘れたくないですね。
その感謝には、食材を提供してくれた魂だけでなく、食事の場を作ってくれた人への感謝も、含まれています。
家で食事を作ってくれる人、お店で食事を用意してくれる人、また、その食材を作ってくれる人や、運んで来てくれる人。
そういった人たちへの、感謝を忘れてはなりません。
さて、食べるということは、他の生き物の生命をいただいていると、言いました。
このことは、昔から言われていることです。
人間から見ると、植物は心を感じにくいので、食べることに抵抗はないでしょう。
でも、動物となると、違いますよね。
しつければ言うことを聞きますし、遊んで楽しむということも、知っています。
その動物を殺して食べるということには、抵抗を感じる人が少なくないと思います。
私たちが肉を食べられるのは、誰かが動物を殺して解体し、食材の肉という形に処理してくれているからです。
それを自分でやらなければ、肉は食べられないとなると、恐らく大半の人が、肉を食べなくなってしまうでしょう。
生活環境の関係で、その地域にいる動物を狩り、殺して肉を食べなければ、生きて行けない人たちは、自らの手で全てを行います。
彼らは動物に生命があることを知っていますし、心があることも知っています。
それがわかった上で、生きるために食べるので、肉になる動物への感謝の念を持っていますし、無益な殺生はしません。
一方で、消費者と呼ばれる多くの人々は、食べる物を単なる食材としか、見ていません。
その食材が、かつては生命活動を営んでいたものの、一部であるとは考えないのです。
そんなことを考えていたら、何も食べられなくなると、思う人はいるでしょう。
しかし、ちゃんと事実を知った上で、食べるべきだと思います。
子供たちにも、そのことをきちんと教えるべきでしょう。
そうすることで、食べることの意味や、生きることの有り難さを、知ることができるからです。
この世界は、何かを食べることによって、生命をつなぐようになっています。
ですから、それによって他の生き物の命が奪われても、仕方がないことではあるのです。
それでも、人はそういう場面を目にするたびに、可哀想だとか、何とかならないものだろうかと、考えます。
そうは言っても、結局、考えるだけで終わってしまうことが、ほとんどではあるのですが、 そこで終わらせないで、ずっと考え続け て欲しいと思います。
他の生命を奪わずに生きることを、真剣に模索するということは、人間と他の生き物の生命を、同等にとらえるということです。
それは世界を知る、大きな一歩となるでしょう。
そして、それは人が知性体として進化することに、つながるに違いありません。