昔の人の気概
松山から今治へ向かう海沿いの道は、今治街道と呼ばれています。
海の景色が素晴らしく、多くの車が行き交っていますが、昔もこの道は、たくさんの人が利用していました。
その途中に、粟井坂(あわいざか)という所があります。
上の写真は、粟井坂を上空から見たものです。
写真中央は、海際まで続いた、海抜50メートルほどの丘陵地です。
今は写真のように、奥の方が開発されて、団地になっています。
この丘陵地の北側が風早郡(かざはやぐん)、南側が和気郡(わけぐん)と呼ばれていて、ちょうどこの丘陵地が郡境になっていました。
写真の左下に「大谷口バス停」とありますが、昔の道はこの辺りから丘陵地を登り、峠を越えた後、写真左上の「粟井坂大師堂」の辺りへ出たそうです。
この丘陵地越えの坂道が、粟井坂と呼ばれているのです。
当時は丘陵地の端は崖になっていて、道はありませんでした。
丘陵地の反対側へ行くには、どうしても丘陵地を越えて行くしかなかったのです。
そのため、この峠には関所もあったようです。
ところが、この粟井坂を抜けるのは、人間にとっても、荷物を運ぶ牛馬にとっても、大変なことでした。
それで、粟井坂の北側、風早郡小川村の里正(りせい)であり、かつ風早郡副長を務めた大森盛寿(おおもり もりかず)氏は、迂回路を造ることを思い立ちます。
ちなみに里正というのは、庄屋のような役割で、里正という呼び名を使ったのか、庄屋という言い方をしたのかは、地方によって様々だそうです。
結局、迂回路の案は上司が受け入れてくれなかったため(恐らく費用の問題だったのでしょう)、大森盛寿氏は建設資金を蓄えることを決めます。
数年後、資金を用意できた大森盛寿氏は、あらためて新道建設を申請します。
すると今度は、新道建設の承認がもらえました。
しかも、県から補助金を出してもらえることになりました。
こうして明治13年4月、ついに新道工事は着工となり、同年7月に道路は完成しました。
それが今も利用されている、海沿いの道なのです。
この時の工事に携わった者は、延べ人数で 5,079名です。
すごい人数ですが、それだけ大変な工事だったと言えるでしょう。
この新道によって、多くの人々が助かりました。
その恩恵は、現在の私たちにまで、続いています。
まさに感謝と尊敬の念しかありません。
それにしても、当時の心ある人たちの気概というものは、凄まじいという言葉が、ぴったりではないでしょうか。
自分の信念を貫き通すという、強い想いを抱き続けるということは、並大抵のことではできません。
現代社会においては、大きな壁にぶち当たれば、すぐに諦めてしまうのではないでしょうか。
また、この大森盛寿氏が自分のためではなく、人々のために動いたというところが、素晴らしいと思います。
彼のその想いがあったからこそ、県も動いたし、人々も動いたのでしょう。
新型コロナ騒ぎで、国民・市民が思ったように動いてくれないと、嘆く政治家は多いでしょう。
でも嘆く前に、自分たちがどれほど、国民・市民の心を動かすような、言動を示せたのかを振り返ってみるべきでしょう。
自分の利益のためでなく、本気で動いている人を目にすれば、誰でも力になろうと思うものです。
政治家に限ったことではありませんが、昔の人の気概というものが、もっと注目されてもいいのではないでしょうか。
また、自分が何かを本気でやっていると言いながら、壁に突き当たって諦めそうになった時、大森盛寿氏のことを考えてみたらいいでしょう。
そうすれば、自分が本当に本気だったのかどうかが、わかると思います。