40年前の話
6月になりました。
今日は、40年前の今頃、私が体験したお話をします。
当時、私は大学生でした。
暮らしていたのは、大学近くのアパートです。
近所には、スーパーがありません。
それで買い物をする時には、当時流行のミニサイクルに乗って、山の向こうにあるスーパーまで、買い出しに行きました。
山越えの道もあったのですが、自転車でその道を登るのは大変です。
ですから、山の向こうへ行く時には、山を迂回して、山裾の道を通っていました。
買い物を済ませてスーパーを出たのは、夕方でした。
山裾の道まで戻って来た時、辺りは夕闇に包まれていました。
空はまだ、ほのかに明るさが残っていました。
しかし、山陰になっていたこともあって、辺りは夜のような暗さです。
それでも、完全に夜というわけではありません。
どこに何があるという程度の、辺りの様子はわかりました。
ミニサイクルの電灯をつけて走る、暗い道には誰もいません。
道の両脇は田んぼです。
左側の田んぼのすぐ向こうには、山裾が広がってできた丘がありました。
その丘には小さな祠があります。
私がそこの道を走っていた時、左前方にその祠が見えていました。
自転車を走らせながら、私は何気なく祠の方に目をやりました。
すると、そこから誰かが降りて来るのが見えました。
闇の中だし離れていますから、直接人影を認めることはできません。
人だとわかったのは、その人物がペンライトを持っていたからです。
ペンライトを持つ手を、振りながら降りているのでしょう。
小さな明かりが、強くなったり弱くなったりしながら、揺れ動いています。
その明かりが祠の長い階段を、ゆっくり降りて来るのが見えたのです。
こんな時間に、あんな所で何をしていたのだろう。
私はいぶかしく思いました。
昼間なら、何も思いません。
真っ暗になってから、丘にある祠に行くのは不気味です。
階段の下には、私が進む道に向かって、細い道が真っ直ぐ伸びています。
そのペンライトの人物は階段を下りきると、そのまま細い道を進んで来ました。
その間、私はずっとミニサイクルを、走らせているわけです。
当然、その人物との距離は、どんどん縮まって来ますよね。
ところがです。
距離は近づいているのに、そこに人影が見えないのです。
いくら暗いと言っても、近づけば動く人影ぐらいは、見えそうなものです。
実際、他の構造物は暗闇の中でも、確認できていました。
それなのに、その人物だけが見えないのです。
見えていたのは、ゆらゆら動くペンライトの灯だけでした。
これは絶対におかしいと、私は思いました。
この距離であれば、そこに人がいれば見えるはず。
だけど、いくら目を懲らしても、見えるのはペンライトの灯だけです。
私は背筋がぞわっとしました。
これは人間じゃない!
人魂か?
そう思いながらも、ペダルをこぐ私の足は止まりません。
何も自分から、怖いものに近づかなければいいのにと、今なら思います。
でも、その時は恐怖に固まってしまったわけですね。
固まっているのに、足だけが勝手にペダルをこぎ続けているのです。
その人魂のような小さな光は、私が走る道へ出て来ると、こちらへ向きを変えました。
まるで、大きな道に出て来た人間のように、カクッと90度方向転換したのです。
私が走っている道の真っ正面です。
人だったら、見えないわけがありません。
でも、そこにいるのは、その光だけでした。
光はふわふわと漂いながら、私の方へ向かって来ました。
私の自転車も、光に向かって走って行きます。
光が目前にまで迫った時、私は心の中で叫び声を上げました。
胸の中では、心臓がバクバクしています。
全身に鳥肌が立っているような感じでした。
そして、ついに光が私のすぐそばまで、やって来たのです。
だけど、その光は私に何をするでなく、すっと私の横を通り過ぎました。
その時、私はようやく恐怖の呪縛を、解くことができました。
ああ、怖かった。
それが、その時の正直な気持ちでした。
私は自転車を止めると、光を振り返りました。
光はそれまでと同じ調子で、ふわふわと飛んでいます。
私は足下の田んぼに、目を向けました。
すると、稲の葉の陰に、いくつか似たような光が、点滅しています。
そうです。
私が人魂だと思っていた、その光。
それはホタルだったのです。
私はそれまで、ホタルを見たことがありませんでした。
初めてホタルを見た私は、驚きと感動で一杯になりました。
でも、ホタルを人魂だと思い込んで怖がった。恥ずかしさもありました。
辺りに誰もいなかったことが、救いでした。
しばらくホタルを眺めた後、私は無事にアパートへ戻りました。
40年前の話です。
今年も、ホタルの季節になりました。