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存在するという奇跡

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 ※Sophie JanottaさnによるPixabayからの画像です。

存在するとは、どういうことでしょう。

存在しないというと、何もない、無ということです。

自分が死んだら、無になると思っている人は、意外に多いようです。

あの世があるかもしれないと思ったとしても、多くの人にとって、それは確かなものではなく、半信半疑です。

では、自分がいなくなる、無になるというと、イメージできるでしょうか。

無になるとは、眠るようなものだと、考える人がいるかもしれません。

確かに、眠っている時には意識がありません。

しかし、それを覚醒時の自分が存在しなくなったと、とらえることはできるでしょうか。

 ※Claudio_ScottさんによるPixabayからの画像です。

通常、眠っている人の意識は、翌朝目覚めた時に戻ります。

存在しなくなったら、戻って来ることはできませんから、眠ることが、存在しなくなるということでは、なさそうです。

部屋にいた人が、部屋の外に出てしまい、その姿が見えなくなっても、部屋に戻ってくれば、再びその姿を見ることができる、ということと同じですね。

部屋の外へ出ると、姿は見えなくなりますが、存在がなくなるわけではないのです。

物理学の世界では、エネルギー保存則があります。

エネルギーは変化はしても、なくならないというものです。

死んで肉体が崩壊しても、肉体を構成していた物質エネルギーは、別な形態に変化しただけで、なくなるわけではありません。

人間の意識も、睡眠中は消えたように見えても、覚醒すれば、再び活動を始めるのは、エネルギーとしての状態が、変化しているだけと言えるでしょう。

では、死んでしまうと、どうでしょうか。

エネルギー保存則に従えば、存在していたものは、なくなりません。

睡眠中の時に、意識形態が変化したように、死後の意識は、肉体とのつながりがない状態に、応じた形態に変化しているだけと思われます。

 ※Angela Yuriko SmithさんによるPixabayからの画像です。

肉体によって、自分の存在を表現できなくなりますから、生きている者からは、死んだ人の存在を知る術がありません。

それで、その人が無になったように思うのですが、実際は変化した状態の意識として、存在し続けていると考えられます。

とにかく、すでに存在しているものが、無になることはないと理解すると、無というものは、私たちには絶対的に縁のないものだと言えます。

ですから、本当の無をイメージすることは、できないのです。

イメージできるのは、存在し得るものだけです。

無をイメージできたとすると、無が存在することになります。

存在しないのが無ですから、これでは矛盾してしまいます。

では、何故自分は存在しているのか。
存在しなくても、よかったのではないか。

そんな風に考えたことは、ありませんか。

何故自分は存在しているのか。

それは、自分が世界の一部だからです。

全てを含めた世界というものが、存在しているから、全ての一部である自分も、存在しているのです。

何故自分は世界の一部なのか。

世界があらゆる意識の集合体だと考えると、世界には、存在し得る全ての意識形態があり、自分もその一つなのです。

ですから、自分が存在するのは、当然と言えば当然なのです。

でも、感覚的には、やはり自分が存在するということは、とても不思議に感じられます。
また、奇跡だと考えたくなるでしょう。

無ではなく、存在している。

このことを奇跡だと受け止めるのは、存在そのものが、とてもすごいことであり、素晴らしいことだということです。

それは、あなたも私も奇跡であり、とてもすごく、とても素晴らしいという意味です。

目立ったことが、できようとできまいと関係ありません。

存在しているというだけで、素晴らしいのです。

そして、それは人間以外の、全ての存在についても言えるのです。

動物も素晴らしいし、植物も素晴らしい。
微生物も素晴らしいし、山や海も素晴らしい。
地球も素晴らしければ、太陽も素晴らしい。

宇宙の全てが素晴らしく、世界は素晴らしいのです。

 ※Hervé LagrangeさんによるPixabayからの画像です。