白か黒か
人は物事に対して、白か黒かという二者択一を、求めるきらいがあります。
たとえば、敵か味方か。
勝ち組か負け組か。
善か悪か。
争っている人たちに、お前は敵か味方かと問われても、困りますよね。
しかし、争っている人たちは、少しでも自分の勢力が、大きくなるようとします。
そのため、無理矢理にでも仲間を、増やそうとするのです。
意志の強い者は、どちらの味方もしないと、答えるでしょう。
でも、意思の弱い者や、断りにくい立場にいる者は、そうはいきません。
自分の考えとは別に、どちらかの味方である事を、宣言させられるのです。
こういう事は、子供の争いだけでなく、大人の世界でもあります。
選挙や派閥の争いでがそうです。
国同士の関係でも、そんな事がありますよね。
こういう時には、はっきりと自分の考えを、相手に伝えねばなりません。
自分が自分自身でいるために、しっかりした心の強さが、求められます。
勝ち組負け組という考え方は、人生を勝負と見なしています。
人生を謳歌できるのは、勝ち組だけです。
負け組には、惨めな人生しかありません。
それが、このルールに従う人たちの考えです。
このルールに従えば、生まれ育った環境で、既に人生に勝負がついていると、考えたりもするでしょう。
生まれつき大金持ちの人に、貧乏な家に生まれた者が、勝てるわけがないと思うのです。
そうなると残されるのは、似た者同士での争いです。
似た者同士なので、その順位はいつ入れ替わるか、わからないほど不安定です。
この考え方は、大金持ちの家に、生まれなかった事への、諦めや空しさが、根底にあります。
その気持ちをごまかすために、ドングリの背比べの中で、わずかな優越感を、味わおうとするのです。
しかし、勝ち組負け組のルールの下には、本当の幸せはありません。
勝ち組にいても、いつ負け組に落とされるかという、不安がつきまといます。
ずっと勝ち続けていないといけませんから、ストレスがかかります。
ちょっと仕事の流れが変わったり、体調を崩したりしたら、大変です。
勝ち組であるプライドが、負け組に落ちる事を許しませんが、それでも落ちる時は落ちるのです。
そんな人はプライドがある分、ずっと負け組にいる人たちよりも、悲惨でしょう。
とにかく勝ち組負け組という考えには、幸せはないのです。
それは落ち着いて考えれば、誰でもわかる事でしょう。
それなのに、このルールを気にしてしまうのは、何故でしょうか。
それは、自分に自信がなくて、自由に生きているという、実感がないからです。
自分なんかが幸せになる事は、絶対にないだろうと、信じているのです。
勝ち組負け組という考え方に、合点が行ってしまうわけですね。
自由に生きられないと、考えてしまうのは、他の人と同じでないとだめだ、という思いがあるからでしょう。
これは子供の頃から、学校で教え込まれている事です。
また、社会に出てからも、職場で求められます。
だから、自分が好きなように生きるなんて、とんでもない事だと、思いたくなるのです。
でも、人は誰もが自由なのです。
自由は権利だと言う人がいますが、あれは間違っています。
自由は権利ではありません。
自由とは、生きている存在に、初めから備わっている、性質なのです。
権利は奪えますが、性質は奪えません。
権利だと考えるから、奪われたと受け止めるのです。
どんな状況にあっても、あなたは自由です。
あなたが本気で、何かを望めば、他人がそれを力づくで、変える事はできません。
自分のルールで生きている人は、特別な人間のように、思えるかも知れません。
でも、特別な人なんて、一人もいません。
もし、誰かが特別だとしたら、あなただって特別なのです。
自分は自由なんだと、気づく事。
それが勝ち組負け組という、偏った考え方から、抜け出す方法です。
善か悪かと決めつけるのも、よくある事です。
しかし、善か悪かは人によって、判断がわかれます。
それは善悪の基準が、その人の立場によって異なるからです。
人を殺せば、普通は悪と見なされます。
でも、戦争で人を殺せば英雄です。
極悪人は殺されても、仕方がないと考えたりもします。
でも極悪人の生い立ちを知り、極悪人になってしまった経緯を理解すれば、考え方が変わるかも知れません。
善悪を決める時、自分の立場が善になるようにして、決めるのが通常でしょう。
しかし、これでは本当の意味での、善悪を論じる事はできません。
自分の立場を考えずに、善というものをイメージしてみて下さい。
頭に浮かぶのは、感謝と思いやりの心ではないでしょうか。
そう考えれば、悪というのは、感謝と思いやりの心が、欠けている状態だと言えますね。
政治家たちが、よく法律的には問題ないと、逃げ口上を述べます。
そんな彼らには、感謝と思いやりの心など、微塵もないように見えてしまいます。
つまり、そういう政治家たちは、善ではなく悪なのです。
それを判断している私たち自身も、常に善である事はないでしょう。
善であったり、悪であったり、その瞬間瞬間で変わるはずです。
だから、悪い事をした人がいても、その人の全人格を否定するような見方は、するべきではありません。
もちろん、直接悪い事をされた人は、相手をとことん詰りたくなります。
それは人間の反応として、当たり前の事でしょう。
でも、被害を与えた相手の事を、思いやれる人もいます。
本来は憎むべき相手にすら、思いやる気持ちを持つ事は、不可能ではないのです。
善悪を考える時、決して目に見える一面だけを見て、即断しないで下さい。
善に見えるようでも、何かの下心が、隠れているかも知れません。
悪に見えるようでも、そこに思いやれる何かを、見い出せるかも知れません。
単純に、善か悪かと考えるのではなく、人間の心の深さを見るようにして下さい。
これは道徳的な話ではありません。
誰かについて、どう判断するかという事を、話しているのでもありません。
人を善悪で判断するという、安っぽい価値観から、あなた自身を解放するという事なのです。