感動をくれたパラリンピック
コロナ騒ぎの中、オリンピックに続いて行われた、パラリンピックが終了しました。
いろいろ問題がある中で執り行われ、開催に賛成する人と反対する人に、分かれた大会でしたが、無事に閉会式を迎えることができました。
様々な意見があるとは思いますが、選手たちが懸命に戦い、観ている人々に、感動を与えたのは事実でしょう。
また、パラリンピックの開催に首を傾げる人も、問題にしているのは、コロナ騒ぎの中での開催ということであり、選手たちに反発しているわけでは、ないと思います。
大会やイベント開催に対する、政府の曖昧な態度こそが、やり玉に挙げられていたのであり、選手たちに怒りを向けていたのではないのです。
とは言っても、オリンピックも含め、選手側が自分たちは特別なんだという想いを、抱いていたとすると、それも正しいことではありません。
学校の運動会やスポーツ大会、あるいは音楽会やコンサートなど、楽しみにしていたのに、諦めざるを得なかった人や、生活がかかっているのに、何もできず困っている人が、多くいたわけですから、そういう人たちへ想いを馳せるということは、大切です。
実際、オリンピックの選手たちもパラリンピックの選手たちも、自分たちの大会が開催されたことに、大いなる感謝を抱き、だからこそ、いつも以上の力を出し切って、活躍したと思います。
パラリンピックについて言えば、肉体に障害があっても、これだけのことができるということを、選手たちはまざまざと見せつけてくれました。
競技ですから勝敗はありますが、パラリンピックで感動を覚えるのは、メダルを獲れたかどうかではなく、勝利に向かって頑張る、選手たちの姿です。
また、こんなこともできるなんて、障害者という言葉は彼らには不適切だ、と言わしめるような、そんな活躍こそが、パラリンピックの醍醐味でしょう。
腕がないから、足がないから、何もできない、ではなく、腕がなくても、足がなくても、こんなことができるぞ、ということを、選手たちは示してくれています。
障害がない人であっても、実際は、自分にはお金がない、資格がない、有力な支援者がいない、だから、何もできないと思っている人が、多くいると思います。
パラリンピックは、その考えが間違っていることを、教えてくれたのではないでしょうか。
大切なことは、自分が何をしたいのか、何に全力を注ぎ込むのか、ということでしょう。
つまり、身体的に何かが足らないとか、生活条件で何かが足らないということは、問題なのではなく、情熱を注げるものを、見つけることこそが、最も重要な課題なのだということです。
今回のパラリンピックは、このことに加えて、多くの人に、いろんなことを考える機会を、提供してくれました。
政府はあてにならない。
じゃあ、どうすればいいのか。
と、自分で考えて行動するという経験を、私たちにさせてくれたわけです。
オリンピックやパラリンピックに、賛成か反対かということも、どちらが正しいというのではなく、そうやって自分たちの意見を、堂々と示すということが重要でした。
日本人は言いたいことがあっても、いつも黙ったまま、上からの指示に従う習慣があります。
今回の騒ぎは、そういう習慣を打ち破る、大きな力になったと思います。
また、コロナウィルスを他人に感染させてしまう不安、その中で、どんな暮らしをすればいいのかという思考、学校へ行けない子供たちや、楽しみだった大会やイベントを、諦めざるを得なくなった人たちへの思いやり。
そういういろんなことが、普段の日常生活の中で、思考や感覚が凝り固まっていた、私たちの心を、解きほぐしてくれたのではないでしょうか。
開催の是非に関係なく、私は今回のパラリンピックは、オリンピック以上に大きな刺激を、私たちに与えてくれたと思います。