自律性と統一性 その2
人間でいう自律性というのは、その人自身を表現することです。
心筋細胞の自律性とは、心筋細胞が自分の性質を、歪めずに表現することですね。
心臓以外の細胞たちも、それぞれが自分の性質を存分に発揮して、自分たちの活動を行っています。
赤血球や白血球も、お前は今日から赤血球だぞ、君は明日から白血球をやりなさい、と言われて、活動しているのではありません。
それがその細胞の性質であり、そうすることが、その細胞の存在の現れなのです。
私たちも人間だから、今の姿があるわけだし、今のような暮らしをしているのです。
今の私たちの活動は、人間であることの表現です。
しかし、まだ存分に人間であることを、表現できているわけではありません。
せっかく人間に生まれながら、人間としての自律性、つまり人間性を表現できていないのです。
私たち人間は、個人個人考え方や価値観、好みなどが異なります。
同じ世界に産まれて来ても、求めるものや、やりたい事は、人それぞれが違います。
そんな自分を素のままに表現して、自分らしく生きるということが、人間の自律性です。
その人個人の人間性なのです。
そういう目で、今の世の中を見てみますと、自律性を発揮できている人が、どれだけいるでしょう。
ほとんどの人が、自分は何をしたらいいのかわからず、世の中の流れに身を任せて、生きているのではないでしょうか。
それは、生きてはいても、仮死状態ですね。
死んでいるのと同じ状態です。
社会を心臓にたとえるならば、今の社会は心停止あるいは細動状態の心臓と同じです。
形はあっても、本来の機能は、果たしていないわけです。
心臓が機能を発揮するためには、まずは心筋細胞が自律性に、目覚めなければなりません。
人間社会が本来の姿を持つためには、まずは一人一人が自分の個性を、表現することに目覚めなければならないのです。
そうして、人々が自律性を持つようになったところで、自分たちが何のために存在しているのかを、理解することが必要となります。
心房から心臓全体の心筋細胞に、号令をかけるのは、自分たちは心臓を動かしているのだという意識を、各心筋細胞に持たせているわけです。
言い換えれば、心臓全体の意識の一部であることを、感覚的に理解させているのです。
これと同じように、それぞれの人が個性を示しながら、自分たちが社会の一員であることを、感覚的に理解すれば、自然と統一された社会が形成されるでしょう。
社会というのは、人間の集団意識の表現です。
今の社会は、大半の人が自律性、すなわち個性を表現できていません。
表現できている人がいても、ばらばらの状態です。
あるいは、間違った号令を好き勝手に出して、周囲の人々を自分に従わせようとする人もいます。
本当の号令は、誰かが声に出して言うものではありません。
それは、一人一人の心の中に、ちゃんと伝達されています。
ただ、その伝達に気がつくためには、まず自分の個性を発揮するという、自律性が求められるのです。
どういう事かと言いますと、個性を発揮するということは、自分が生きていることに満足し、幸せを感じるということなのです。
幸せを感じるようになると、幸せであることが、どういうことかを理解し始めます。
そして、他の人たちとの、心のつながりの重要性に、気がつくわけです。
他の人の笑顔、他の人の喜びが、自分の幸せと結びついているのだと知ると、自然に他の人たちへの思いやりを、持つようになります。
同じような気持ちを持つ人々は、自然に集まり始め、一人ではできなかったような活動が、可能となります。
それは初めは小さなグループですが、やがて大きなグループへと、発展して行きます。
誰かが指示して行うのではなく、みんなが自分で考えて動くのです。
組織ではなく、仲間なのです。
したくもないのに、仕方がなくて動く人など、一人もいません。
そこにあるのは、互いへの思いやり、感謝と愛情です。
こうした動きの延長線上に、築かれた社会は、元気に血液を送り出す、心臓と同じになります。
一人も取り残されることなく、みんなが社会の一員であることを自覚して、それぞれの個性を発揮しながら、互いを喜びへ導くのです。
これが、本来の人間社会の姿であり、進化した人類の意識が示すものなのです。