相対的な世界 その3
自分は恵まれていない。
この発想は、自分と他人を比較して、初めて生まれるものです。
比べる相手がいなければ、恵まれているかどうかがわかりません。
もしかしたら、自分の状況は変わらないのに、比べる相手が違っていれば、自分は何と恵まれているのだろうと、思うかもしれません。
自分は誰にも愛されていない。
これは、孤独の極みにあるような想いですね。
喩えてみれば、明るさの程度は違えども、他の人には光が当たっているのに、自分だけは光が当たらず、真っ暗闇に包まれている、という感じでしょう。
でも、これも自分がそう感じているだけの話であって、他の人が見た場合、愛の光が煌々と照らされているように、見えるかもしれません。
要は、自分がその愛の光を、感知できているかどうかの問題です。
つまらない人生だ。
多くの人が感じていることかもしれません。
特別なことは、特別な人にだけ起こると、信じているのです。
でも、つまらないか面白いかの判断は、人によって違うものです。
自分では、全然面白くないと感じている人生が、他人から見れば、何と面白い人生なのか、となるわけです。
ちょうどドラマや映画で、誰かの人生をのぞき見している感じでしょうね。
自分とは違うものは、どんなものでも珍しいし面白く思うものです。
あるいは、自分と似たような局面を持っている人は、つい応援したくもなります。
それは、何かの競技に参加している、選手のようでもあります。
お金もあるし、異性にももてて、人生最高!
こんな人が言う最高とは、精神的なものではありません。
つまり、最高と感じるのは、ほんの一時であり、すぐにさらなる刺激となるものを、探し始めるのです。
精神的な満足を得ている人であれば、今の自分を幸せに感じ、不必要に何かを追い求めたりはしないでしょう。
しかし、物質的な環境を基盤とした喜びは、刹那的であり、まるで花火のようです。
きれいだけれど、しばらくすると、すぐに消えてしまうので、また次の花火を見たくなります。
科学の進歩はめざましく、科学で説明できないものはない。
宗教における神さまのように、科学を信奉する人は、このように信じているでしょう。
科学で説明できないものは、非科学的と決めつけて、そんなものは有り得ないと、簡単に結論を出してしまいます。
でも、本物の科学者はそんな風には考えません。
自分たちの科学が、まだまだ未熟であることを、認識しているので、とても謙虚ですし、未知の存在に対して、心をわくわくさせるでしょう。
アメリカ政府が認めたUFOの技術を、解明できないのに、科学が全てを説明できるとは、おかしな理屈です。
また、UFOを創った知性体においても、彼らを超える知識や技術は、必ず存在するでしょう。
科学とはそのようなものであり、絶対的なものではないのです。