一冊の本
本の中には、それを書いた人の想いが、表現されています。
どんな本であれ、それはその人の心を、本の形として表したものです。
物語を読むということは、その人の心の中にある、もう一つの世界をのぞかせてもらうわけですね。
でも、それは本に書かれた文字が、理解できればの話です。
文字の意味がわからなければ、何かが書かれていることはわかっていても、その中身はわかりません。
文字というものを知らなければ、それが本であることすら、理解できないでしょう。
本を持たされても、パラパラページをめくるしかできず、面白くも何ともありません。
精々できることは、どれだけ早くページをめくれるかという競争や、自分勝手にページに落書きをするか、ぐらいのことでしょう。
あるいは、玩具代わりにするのでしょうか。
この世界を一冊の本に喩えてみましょう。
「この世界」というタイトルの本に書かれた文字を、どれだけ多くの人が、理解しているでしょうか。
つまり、この世界がどんな所であるのか、どうして私たちはこの世界にいるのか、などが書かれてあると、理解している人が、どれだけいるのかということです。
理解している人は、それなりの生き方を送っていると思います。
しかし、理解できていない人は、退屈な日々を機械的に過ごすだけ、あるいは自分勝手な世の中のルールを作り、それにみんなを従わせようとするのでは、ないでしょうか。
自分が理解しているなんて、どうしてわかるのかと、文句を言われそうですね。
これは感覚の問題です。
私たちは、この世界を自分の五感でとらえています。
言い換えれば、五感によって世界はこんな風なんだと、認識しているわけです。
あなたが目を閉じれば、世界は暗闇に包まれるでしょう。
産まれた時から、ずっと目を閉じた状態であれば、光が何かもわかりません。
でも、それがあなたにとっては、普通の世界なのです。
また、何かに注目している時、そのすぐ脇に何かが置かれていても、あなたは気がつかないでしょう。
何かに夢中になっている時、呼びかけられても、わからないのも同じです。
本当は見えているはずなのに、本当は聞こえているはずなのに、あなたがそこへ意識を向けなければ、見えるものも見えないし、聞こえるものも聞こえません。
それと同じように、いわゆる五感以外にも、私たちには世界をとらえる感覚があります。
その一つは、気配を感じるというものです。
誰もいないのに、そこに誰かがいるように感じたり、誰かの視線を感じたりする、あれです。
これも何かに気を取られていては、何かの気配があったとしても、気がつかないでしょう。
ぼんやりして五感から意識を外していると、他の感覚に気づきやすいと思います。
お風呂に浸かっている時に、はっと何かを思いつくのも、別次元からのテレパシーかもしれません。
これも五感とは別の感覚です。
このように五感以外の感覚の存在を認めると、世界に対する認識は、大きく違ったものになります。
そこから世界の構造などについて考えると、科学的な知識もレベルアップするでしょう。
そういったことが、「この世界」という本の言語を、読み取るということなのです。
世界観が変われば、必ず生き方も変わって来ます。
少なくとも今の生き方に、疑問をお持ちの方は、ぜひ「この世界」の言語を読み解いてみて下さい。