相対的な世界 その1
この世界は全てが相対的です。
右と言えば、左があります。
前と言えば、後ろがあります。
自分と言えば、自分ではないものがあります。
お金持ちと言えば、貧困があります。
勝利と言えば、敗北があります。
敵と言えば、味方があります。
男と言えば、女があります。
大人と言えば、子供があります。
例を挙げれば、切りがありません。
とにかく、この世界は相対的であり、何かを選べば、その反対側が登場するのです。
そのため、人々は何かを比べ合ったり、二者択一的な見方をしたりします。
たとえば、光と闇という表現が、よく見られますよね。
光は明るく、闇は暗いので、光を正義、闇を悪に見立てることも、少なくなりません。
しかし、闇というのは、光が当たっていない状態をいうわけであって、光と対等に、闇という存在があるのではないのです。
光と闇という見方ではなく、光が当たっているのか、いないのか、という対比の方が正確でしょう。
光の当たり具合で、明るさや暗さは変化します。
ある人にとっては、暗い所でも、別の人にとっては、それほど暗くないということもあります。
明るい所から、暗い部屋に入ると、真っ暗闇に包まれますが、しばらくして目が慣れると、部屋の中の様子が、ぼんやりと見えて来て、真っ暗闇ではなくなります。
あるいは、暖房の効いた暗い部屋と、冷房の効いた明るい部屋を、赤外線感知カメラで見て見たならば、暗いはずの部屋の方が、はっきりと確認できるでしょう。
私たちが光だの闇だの言う時は、可視光線を基準としています。
可視光線とは別の電磁波を基準にすれば、私たちが考える光と闇の構図は、また違ったものになると思います。
光と闇という見方は、二つの対極同士を表現するのに、便利なとらえ方ではあります。
しかし、だからと言って、物事や人間について、単純に光か闇かというようなとらえ方をするのは、誤りでしょう。
どんなに善人に見える人の心の中にも、よくない部分は潜んでいるものです。
また、どんなに悪人に見える人の心の中にも、優しさが隠れているものです。
心の清らかな人は、自分の中の悪い部分を認めた上で、いい部分に意識の焦点を合わせようとするものです。
悪い気持ちを持つ人も、自分の中の優しさに気づいているはずですが、悪い気持ちの方に焦点を合わせてしまうのです。
その人の心の中は、本人しかわかりません。
それで、人はその人の外観や言動で、その人が善か悪か、光か闇かと、決めつけた評価をしてしまうのです。
でも、自分自身が善なのか悪なのか、決められないことは、わかっているはずです。
その事を考えれば、どんな人のことも、決めつけることが間違いだとわかるでしょう。
この世界に、絶対的なものはないのです。