インターネットの功罪
今や、あって当たり前のインターネット。
でも、ほんの 20数年前までは、一般的なものではありませんでした。
インターネットがこれだけ普及したのは、パソコン人気のお陰です。
中でも、1995年に発売されたWiondows95は、パソコンの売り上げに大きく寄与したと言えるでしょう。
それまでは、情報というものは書籍や新聞、テレビやラジオのニュースに頼っていました。
人々は、真偽を確かめることはおろか、疑うことすらせずに、それらの情報を正しいものと信じて、受け止めていました。
しかし、今は当時とは全く異なる状況で、マスメディアと呼ばれるものは、かつての信用を失い、インターネットで個人が配信しているものより、人気度が落ちているのが現状です。
人々は情報を与えられるだけの状況から、自ら情報を発信するという、新たな環境を楽しんでいます。
また、インターネットは地球の裏側の人たちとも、瞬時につながることができます。
しかも、国際電話のように料金を気にする必要もありません。
このことは、人々の距離に対する感覚や、世界観にも大きな影響を与えたと言えるでしょう。
江戸時代までは、庶民の世界は村でした。
他の国でも、同じようなものでしょう。
村人が村の外へ出ることは、かなりの冒険だったと思います。
ですから、一生に一度は、お伊勢参りや金比羅参り、四国遍路をしてみたいと思ったのは、当然のことでしょうね。
それが、今では地球規模で動くようになり、国や民族、宗教を超えた交流が行われています。
中には、まだ昔の村意識のような、閉鎖的な考えを持つ人もいますが、かなりの人、特に若い人たちには、国境などの境界線は、意味をなさなくなって来ているように思えます。
インターネットにより、個人が自由な発信ができるようになると、世の中から注目されたいという思いや、世間を騒がせてみたいという考えを持つ人が、思いのままに活動し始めました。
そのことだけを見ると、インターネットのせいで、どんどん悪質な犯罪が増えていると、嘆きたくなってしまいます。
しかし、一方では遠く離れた人たちが、連絡を取り合い、互いの情報を交換し合いながら、楽しい世界を築こうとしています。
インターネットはただの連絡手段に過ぎず、いいも悪いもありません。
それをどう利用するかは、私たち人間の問題なのですね。
いい情報、悪い情報が、権力によるコントロールを回避して広がりますが、そこからどんな情報を拾い上げるのか、そこが今、私たちに求められているのでしょう。
インターネットで私たちは、世界観を広げることができました。
また、多くの人と思いを共有するという、経験をすることもできました。
あとは、その中身の問題です。
今は、いい情報と悪い情報が入り交じった状態ですが、いずれはいい情報が、悪い情報を陵駕するでしょう。
何故なら、いい情報に基づいた社会の方が、居心地がいいからです。
悪い情報を流す人たちの多くは、居心地が悪いからこそ、そのようなことをして、鬱憤を晴らそうとしているのです。
その人たちをも巻き込んで、居心地のいい社会が築かれて行けば、悪い情報が流れることは、少なくなって行くでしょう。
インターネットの功罪は、私たちが何を選択するかによって、決まります。
どこかの偉い人たちが、選択するのではありません。
私たち一人一人の庶民が、普段の生活の中で、何を選択して行くのかということです。