雑談の大切さ
家族や友人、知人、職場の同僚などと、日常のことや、仕事のこと、自分が興味のあることや、小耳に挟んだようなことを、喋り合いますよね。
別に何かの目的があるわけでなく、何となく喋って、自分が考えていることを、わかってもらったり、思いもしなかった話を、聞かされたりします。
特に話題が決まっているわけでなく、その場の雰囲気や思いつきで、適当に喋るから、こういうのを雑談と言うんですね。
それは、ちょっとした楽しみにもなりますから、日本人的には遊んでいるように、見えることがあるようです。
日本人の古い考え方では、遊びは楽しいことで、仕事は楽しくないことと、きっちり線引きをされている所があります。
子供の場合、勉強が仕事だと見なされるので、勉強は楽しくないことであると、位置づけられています。
授業中に隣の子と、雑談などしようものなら、先生の雷が落ちてしまいます。
仕事にしても、雑談をすると、口を動かすのではなく、手を動かせと言われるでしょう。
楽しければ、放っておいてもすることが、楽しくなければ、やりません。
ですから、楽しくないことをする時には、努力だの苦労だの、根性だの頑張りだの、と言われるのです。
楽しくないことを無理やりさせられて、結果が出せないと、お前はだめだと言うのが、学校でも職場でも、日本ではよく見られる光景です。
しかし、勉強にしろ仕事にしろ、その中に自分なりの楽しさを、見つけることができれば、無理やりの作業ではなくなり、自主的な行動になります。
そうなると、忙しくても嫌じゃない、大変だけと楽しい、となるのです。
雑談は、そんな楽しさを見つける、きっかけになることがあります。
また、精神的な安定にも、雑談は大いに役立っています。
今は新型コロナの影響で、仕事や学校の授業で、パソコンやスマホを使うことが、推奨されています。
それは人と人との接触を避けながら、作業を行うという発想です。
これは一つの方法であり、職場や学校へ行けない人にとっては、便利なやり方でしょう。
しかし、誰にでもこれをするとなると、問題が起きて来ます。
多くの人と一緒にいるのが、苦手な人はいます。
そういう人にとっては、こういうやり方もあるよと、いうのは朗報でしょう。
しかし、いろんな人と直接顔を合わせて、雑談がしたい人にとっては、このやり方が苦痛になっていると聞きます。
中には、精神的ダメージを受けてしまう人も、いるようですね。
人は互いにコミュニケーションを取りながら、集団の中における、自分の位置を確かめて安心します。
でも、集団の中にいても、他の人と心が通わせられなければ、やはり孤独に陥ってしまいます。
ただ喋ればいいということではなく、喋るということで、相手と心を通わせるということが、重要なのです。
大勢の人間を集めて、何も喋らないで、黙々と働けという仕事のスタイルは、人間をロボットのような機械として見ているわけで、それに付いて行けない人は、少なくないでしょう。
雑談ばかりで作業をしないのは困りますが、適度な雑談というものは、心の潤滑油になって、同じ作業を持続する力を、与えてくれるものです。
また、雑談の中から、新しい商品のアイデアや、新たなやり方などが、生まれることがあるようです。
先見の明がある企業では、従業員が快適に雑談ができるような、職場環境の配慮を心掛けていると言います。
日常生活においても、仕事においても、人間にとって雑談は重要です。
特に、コロナ騒ぎのような状況においては、雑談の重要性は増します。
雑談をうまく取り込み、雑談を楽しむということを、個人でも企業でも、活用してもらいたいですね。