いつもと違うこと その2
いつもと違うことを、生活に取り入れるのは、身体的にも精神的にもいいことです。
ここで言う精神的にいいというのは、ストレスから解放されることで、心が安らぎを覚えるということです。
でも、そこからさらにもう一歩進んだ、いつもと違うことをすることで、解放された心が、もっと自由を感じられるように、してみましょう。
それには、イメージを使います。
たとえば、草花や木々に心があると、想像するのです。
植物には目も耳もありませんが、周囲を感じていると考えて下さい。
口がないから、人間のように喋ったりはしませんが、テレパシーで思いを伝えることができると想定します。
そんな感じで、人間とは異なる、植物独自の心をイメージして、語りかけてみて下さい。
おはようとか、元気にしてるかいとか、今日もいい天気だねとか、口に出しても構いませんし、心の中で話しかけてもいいです。
毎日、声をかけていると、本当にその植物に心があって、挨拶を返してくれるように感じて来ます。
その草花や木々に触れなくても、見ているだけで、触感や質感、香りなどが心の中に、浮かんで来ると思います。
同じようなことを、あらゆる物に対して、やってみましょう。
すると、自分がいろんな心に囲まれ、つながっているような気がすると思います。
そうなると、世界観がまるで違って来るでしょう。
学者や知識人と呼ばれる人が、どう考えていようと、何を言おうと、そんなことはどうでもいいのです。
自分が世界をどう感じ、どのように認識しているのかが、何より重要なのです。
それに、これはただの想像だと思わないで下さい。
私たちが他の存在の心を、感じることができないのは、自分と他のものは別だと、完璧な線引きをしているからかもしれません。
想像という形で、その線引きを取っ払うことで、植物や他の存在たちの心を、実際に感じ取ったり、心を通わせていると考えることはできるのです。
そんなこと、あるもんかと思う人はいるでしょう。
でも、どうしてそうなのかを、その人は説明できないと思います。
否定したくなる人は、それまでの自分の習慣的な考え方に、そぐわないという理由だけで、否定したくなるのでしょうね。
首から下の感覚が全くなく、体を動かすこともできない状態を、イメージしてみて下さい。
動かせるのは、首から上だけです。
目を動かすことで、何とか見える体は、自分の体とは思えないでしょう。
体が麻痺する前の記憶があるならば、動かすことができず、感じることができなくても、それは自分の体だと、理解することはできます。
しかし、生まれつき麻痺していたとすると、それが自分の体だと言われても、全然ぴんと来ないでしょう。
それが医療技術の進歩によって、体を感じたり、動かせたりするようになった時、自分という存在の認識が、大きく変わると思います。
自分ではないと思っていたものが、自分の一部だったと知るのは、驚きという言葉では、表現できないほどの、感動をもたらしてくれるでしょう。
植物や他のものたちの、心を感じるということは、麻痺していた体の感覚を、取り戻すのと同じです。
元々全ての存在は、一つだったわけですから、私たちに心があるのならば、他の存在にも心があるのです。
そして、それぞれの心は根っこの所で、つながっているはずです。
それが本当のことかどうかなど、証明する必要はありません。
自分が周囲の存在を感じ、交流できると認識することが、大切なのです。
他の人に理解してもらわなくても、いいのです。
普段認識している世界というのも、結局は個人的な体験に過ぎません。
自分が世界をどのように感じるのか。
いつもと違う感覚を、想像を通して解放してみて下さい。
間違いなく、あなたは映画の主人公になったような、特別な存在感を味わえるでしょう。