新聞記事 その2
私たちの世界は、文字でできているわけではありません。
目に見えたり、耳に聞こえたりする世界です。
新聞記事は文字の集まりですから、記事が何が言いたいのかを成立させるためには、一文字一文字をつなぎ合わせた、文章にする必要があります。
そうすることで、そこに記事の内容が、浮かび上がってきます。
文字でない私たちの世界は、どうでしょうか。
私たちの世界は、映画のフィルムに喩えられます。
一コマ一コマの映像や、それに付随した音声の情報をとらえても、そこに世界は存在しません。
しかし、全てのコマを連続して流して行くと、世界が生まれ、その中で人々が動き出します。
その人たちには、ちゃんと意思があり、何かを考えたり感じたりもするのです。
あたかも、それは実在しているように思えますが、流れを止めてしまうと、世界は消えます。
そこにあった世界は潜在的なものとなり、再び誰かが鑑賞してくれるまで、姿を見せることはありません。
そして、私たちが認識している世界も、また自分だと信じているものも、全てはこの映画のフィルの中のものと、同じだと考えることができるでしょう。
本質的な私たちというものは、この世界、今の自分を超えた、別の所に存在しています。
そこで私たちが現実と呼ぶ世界を、映画を観るように体験しているのです。
映画館の観客のようなものですね。
ところで、新聞を読む時、どの記事を見るかは、大抵の場合、自分が興味があるものを、見るでしょう。
映画館で観る映画も、自分が観たいものを選びます。
でも、新聞を読む時に、自分が読みたくて読んでいるわけでは、ないということもあると思います。
たとえば、株は儲かると言われて、何となく株を買ってしまったために、毎日株価を気にするように、なることがあるでしょう。
スポーツには興味がないのに、仲間や顧客との話題のために、無理に記事に目を通すということも、あるのではないでしょうか。
営業マンなら、経済新聞ぐらい読んでおくのが常識だと言われ、仕方なく読む人もいると思います。
好きで読んでいるのなら、何も問題はありません。
しかし、読みたいわけではないのに、読んでいるという人にとっては、苦痛でしょう。
どうせ読むなら、雑誌の方がいいと、思うかもしれません。
そう思って、読みたくもない記事から、離れられる人は、素晴らしいと思います。
離れられない人は、お気の毒ですね。
映画にしても、同じです。
自分が観たい映画を観るならいいのですが、他の人に合わせて、興味のない映画を観るはめになると、退屈で仕方がないでしょう。
場合によっては、とても苦痛になったり、嫌な気分になることも、あると思います。
この場合でも、自分は観たい映画を観ると言って、その場を離れられる人は、素晴らしいと思います。
それができない人は、やはりお気の毒ですね。
新聞記事や映画は、その気になれば、自分の我を通して、変更することが可能です。
決してむずかしいことでは、ありません。
しかし、私たちの人生については、どうでしょうか。
先に述べたように、私たちの人生も、一コマ一コマのフィルムをつなげた、映画のようなものです。
本当は、こんなはずではなかったとか、自分はもっと違う人生を、歩みたかったんだ、と思うことはありませんか。
そう思うのは、あなたが間違った人生映画を、観ているからです。