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新聞記事 その1

この記事は3で読めます。
 ※K-factoryさんによる写真ACからの画像です。

新聞には、様々な記事が載せられています。

新聞を読むにも、人それぞれ好みがあって、真っ先に自分が関心のある所から、読む人もいれば、初めから順番に読んで行く人もいます。

興味がある所しか読まない人もいれば、小さな記事まで全てを読む人もいます。

ところで、私たちが記事を読む時、そこに書かれてある文面を、一文字一文字順番に目を通して行きますよね。

そうして、一つの文を読むことで、その文に何が書かれているのかを、理解します。

文の意味はわかっても、それだけでは、記事が何を言いたいのかは、わかりません。

記事の内容を知りたければ、文の塊である文章を読まないといけませんし、いくつもの文章が書かれていれば、それら全てを読まなくてはなりません。

また、関連記事というものが別にあれば、そちらにも目を通す必要があるでしょう。

そうしなければ、その記事が何を伝えようとしているのか、詳細はわかりません。

ただ、いずれにしても、私たちは一文字一文字を根気よく読んで行き、そうやって全部を読み終えることで、記事の内容を理解するわけです。

 ※しみるけいさんによる 写真ACからの画像です。

これは、私たちの普段の暮らし、私たちがいる世界の流れと、よく似ています。

私たちは瞬間瞬間しかわかりません。

私たちにとっての現実と言うものは、実は今という瞬間だけなのです。

一文字一文字順番に読むことで、一つの文、一つの文章を理解するのと同じで、一瞬一瞬の現実が、つなぎ合わされることで、人生というものが築かれて行くのです。

それが時の流れであり、私たちの経験も思考も、全てがこの流れによって、構築されるものなのです。

どこかの一瞬だけをとらえても、そこには何の経験もなければ、何の思考もありません。

つまり、私たちが自分と認識しているものも、存在していると信じている世界も、ないのです。

そこにあるのは、一瞬一瞬をとらえて、つなぎ合わせようとする意思です。

この意思は、私たちが通常理解している、自分という概念ではありません。

私たちが理解している自分というものは、瞬間瞬間をつなぎ合わせることによって、創られたものなのです。

つまり、普段認識している自分というものは、一種の幻想であり、錯覚のようなものなのです。

そういうものを超えた別の所にこそ、本質的な自分というものが、存在しているのです。

それは、どこなのでしょうか。

それは、私たちが無意識と呼んでいる領域です。