自分とは
自分とは何かと考える時、自分と認識しているものと、そうでないものを区別するでしょう。
言い換えれば、その区別があるからこそ、自分というものが認識できるわけです。
具体的に言えば、人は体を自分と見なし、体の外を自分以外と考えています。
体の皮膚の表面を境にして、自分と自分以外を、区別しているのですね。
では、どうして体を自分と考えるのかと言いますと、体は思いどおりに動きます。
また、体の感覚によって、私たちは世界を感知しています。
私たちは自分を、体と一体化させて理解していますので、自分と言うと、体を基準にして考えるのです。
しかし、正確に言えば、自分=体 ではありません。
自分とは、心のことです。
その心においても、体を基準にして作られた概念が、多く存在しています。
自分は、日本の愛媛県に暮らす風野陽二だ、という自分の規定は、自分の体がどこに所属しているのかを、述べているに過ぎません。
俺は男だ、男とはこうあるべきだ、という考え方も、自分の体が男だから、そう考えるようになっただけのことです。
人間とは何ぞやという考え自体も、自分が人間だから、そう考えるのであって、別の存在であれば、そんな考えは無意味でしょう。
本当の自分というものは、産まれる前から存在しており、この世界で死んだあとにも、存在し続けるものです。
人間としての自分という概念は、人間に生まれたからあるだけで、別の世界の別の存在に生まれれば、別の自我を持つでしょう。
でも、産まれるまでは、自分はどこにも存在していなかったとか、死んだら自分という存在は、消えてなくなるのだと信じていると、どうしても体を基準にした自分こそが、本当の自分だと受け止めてしまいます。
それで何も問題が起こらないのであれば、別にそれでも構わないのですが、実際には自分に自信がないとか、自分には価値がないとか、死ぬのが怖いとか、様々な問題が起こっています。
それらは全て、自分というものが、よくわからないまま、他の人と同じような、曖昧な概念で生きているからです。
本当の自分とは、人間を超越した存在です。
人間というのは、一つの存在形式であり、人間体験から何かを学ぶための、一手段です。
私たちが日常使っている、人間としての思考も、人間経験の一つです。
意識とは思考するものだと理解していると、思考している自分が、本当の自分だと考えてしまうでしょう。
でも、人間の思考は紐のようなもので、細長く順序立てられた形を、取っています。
厚みはなく、紐全部を確かめないと、何を考えているのかがわかりません。
本当の自分が扱っている思考は、そのような薄っぺらいものではなく、細胞の遺伝子的なものでしょう。
つまり、一つの塊の中に、様々な種類の情報が練り込まれているようなものです。
テレパシーと呼ばれているような、意思疎通の仕方が、本来の私たちの思考形式だと思います。
言葉のように、長々と時間をかける思考ではなく、一瞬にして全てを理解できるような、そんな思考です。
私たちはそれを、閃きとして体験します。
情報源は無意識です。
閃きは、長々と順序立てて説明されたことを、なるほどそうかと、理解するものではありません。
一瞬にして、全てがわかるような感じです。
この閃きのような思考形態こそが、本来の思考であり、そういう思考をする自分こそが、本当の自分と言えるのです。
今の自分に自信がない人、悩んでいる人は、あまり深刻に考えないことです。
どの人も、本当の自分というものは、共通して光輝いています。
そこに優劣は存在しません。
何故なら、元はみんな一つの存在だからです。
でもこの世界では、その考え方が受け入れられていません。
全ては細かく分類され、分離され、比較され、優劣をつけられます。
人間は最高の存在だと信じたいがために、他の存在を見下します。
同じように、自分は最高の存在だと信じたいがために、他の人たちを見下したくなるのです。
自分に自信がないとか、悩んだりする人というのは、本当の自分を感じ取っている人たちなのでしょう。
だから、今の世の中の仕組みに、上手く適応できないのです。
でも、適応する必要なんかありません。
世の中の方が狂っているのです。
誰かと自分を区別する必要はありませんし、自分のことも他の人のことも、批判する必要はないのです。
みんな自由に、ありのままの姿で生きればいいのです。
世の中がおかしいのに、自分の方がおかしいだなんて、思ってはいけません。
それよりも、今の自分にできること、今の自分がしたいこと、また本当の自分が、今の自分をとおして、何を学ぼうとしているのか、それを理解することが大切だと思います。