差別問題
アメリカで黒人市民が、警察に殺された事件を発端に、人種差別への反発が、世界的に活発になっています。
こういう事は、過去にも同じようなものがありました。
でも今回の動きには、今までにない力を感じています。
まるで、人類全体の心が固い殻を破って、自由を手に入れようとしているかのようです。
ところで、人種差別は国際的な問題でもあり、このように大きな騒ぎにもなります。
マスコミにも大々的に取り上げられます。
しかし他の差別については、誰かが命を失わない限り、騒ぎにもなりません。
マスコミが取り上げる事も、滅多にありません。
死者が出て問題になっても、全てが一時的です。
翌日、他の事件でも起これば、もう忘れられてしまいます。
何故でしょうか。
それは自分自身、あるいは身近な方が、日常的な差別を経験していないからです。
大抵の人は、嫌な思いをさせられる事があっても、それが継続的でなければ、あまり問題に感じません。
しかし、毎日のように嫌な思いをさせられたなら、その人は差別問題を忘れる事はないでしょう。
では、差別問題があまり取り沙汰されない、日本では日常的な差別はないのでしょうか。
そんな事は、ありません。
日常的な差別は、どこにでもあります。
目立たないように行われているのと、人々の無関心で、ないように見えるだけです。
日本人は、表立っての争い事を好みません。
基本的に目立つ事を嫌います。
だから、誰かを人前で罵ったり、あからさまに嫌な態度は見せません。
でも、他の人から見えない所であったり、自分が誰かを特定されなければ、平気で嫌な態度を見せます。
学校や職場のいじめ、ネットでの匿名の誹謗中傷などがそうです。
ある地域へ移住した方が、村八分に遭う原因の一つは、外からはわかりにくい、地域の閉鎖性です。
弱い立場の者に対して、差別は行われます。
相手が抵抗できない、あるいは抵抗しても大したことがない、そういう認識の下で行われるのです。
思いがけず、差別した相手が地位のある者であるとか、強力な仲間が大勢いるなどとわかれば、差別をしていた方は、パニックに陥ります。
差別とは、そのように愚かで情けない行為なのです。
差別なんかした事がないと言う人は、多いかも知れません。
でも子供の頃に、周りの子供たちと一緒になって、誰かを責めたり、からかったりした事が、あるのではないでしょうか。
自分に従わない相手に対して、意地悪をした事はありませんか。
それだって差別なのです。
今述べているのは、一般的に知られる差別ですが、差別とはわかりにくい差別もあります。
たとえば、人が困っているのがわかっているのに、見て見ぬふりをするのは差別です。
遠方にいるから、助けたいけど助けようがない、という話ではありません。
目の前にいて、手を差し伸べる事ができるのに、それをしない行為を言っているのです。
困っているのが、自分の家族や友人であれば助けるのに、他の人間だと助けない。
このように、相手によって態度を変えるのは、差別と言えます。
誰かがいじめられているのに、それを止めようとしない。
知り合いが生活に困っているのに、相談にも乗ってやらない。
道に倒れている人を見ても、助けようとしない。
こういう消極的な差別は、どこでも見られる事です。
行為を行う本人には、それが差別だという認識は、ないと思います。
それ故、このような行為は、悪意なくやってしまいがちなのです。
こう考えると、誰もが差別をした経験があると言えます。
もしかしたら、過去の話ではなく、今現在の事かも知れません。
しかし、私はその責任について、言及しているのではありません。
未熟な者は差別をするものなのです。
ですから、子供は差別をしやすいですし、大人でも精神的に未熟なうちは、差別をしてしまうのです。
私自身、子供の頃は、差別心を持っていました。
大人が言う言葉を鵜呑みにして、アメリカは正義で、ソ連(昔あったロシアを中心とした国)や中国は悪いと、思い込んでいたのです。
もちろん、今はみんな同じ人間だという、認識で生きています。
心が未熟なうちは、差別がなくなる事はありません。
どんなに差別が悪いと訴えたところで、未熟な人には伝わらないのです。
差別が悪いと理解できるのは、心が成熟した人だけなのです。
つまり、差別をなくすためには、人々の心を、成熟させる必要があるわけです。
そのためには、それぞれの人が自分の中にも、差別意識があったのだということを、認識しないといけません。
まずは、自分も差別問題の、当事者だったと知る事が、心の成熟への第一歩なのです。