矛盾が導いてくれること その1
辻褄が合わないことを、矛盾と言います。
有名な矛盾の説明に、どんな盾(たて)も貫く矛(ほこ)と、どんな矛も防ぐ盾があるとして、その矛でその盾を突くと、どうなるのかというものがあります。
これは武具を売る商人が、適当なことを言って、客を騙そうとしていたところが、客から矛盾を追及されて、返答ができなくなったという逸話です。
このため、矛盾という言葉は、矛と盾を合わせたものになっています。
警察官や裁判官が犯罪を犯したり、子供を守る立場の親や先生が、子供を虐待したり、国民のために働くと宣言したはずの政治家が、私腹を肥やしていたりと、世の中は矛盾だらけです。
個人的には、愛しいはずの人に暴言を吐いたり、乱暴するという人もいるでしょう。
これも矛盾です。
人類なんか滅びればいいと考える者が、家族を守ろうとするのも矛盾です。
でも結局、矛盾というものは、人間の思考や行動においてのみ、生じるものです。
それは人の心が、枠にはめられるものではなく、様々な要素が混在しているということを、示しているのです。
これはこうあるべきだなどという理屈は、通用しません。
人の心には、強い部分と弱い部分があり、そのことを知っておかないと、社会における矛盾を理解することは、できないでしょう。
また、自然界の現象や出来事には、一見矛盾するように見えるものが、あったとしても、それは人間の理解能力が、低いというだけに過ぎません。
たとえば、リンゴは木から落ちたのに、月は空に浮かんだまま落ちて来ない、というのは、今の人には当たり前のことですよね。
でも、昔の人には不思議なことだったでしょう。
もちろん、それを当たり前と思わず、気にする人にとってはですが。
その矛盾から、万有引力の法則に気づいたのが、ニュートンです。
この法則により、リンゴは落ちるのに、月は落ちないという矛盾は、解消されたのです。
かつて、この世界は平面だと信じられていました。
しかし、多くの賢人たちは、地球は丸いと唱えていました。
そして大航海時代に、世界を一周した船が現れたことで、地球球体説が直接的に証明されました。
世界が平面だと信じている者にとっては、遠くへ向かったはずの船が、反対側から戻って来るのは、大いなる矛盾だったでしょう。
しかし、地球は丸いという発想を受け入れることで、この矛盾は解消されたのです。
また、光や電子は、とても小さな粒だと、昔は考えられていました。
ところが実験によって、これらが波の性質を持っていることが、わかったのです。
私たちにとって、波というものは、何かが揺れたり、振動する様子を言います。
そこには波を起こす実体が、存在します。
たとえば、水面の波を起こすのは水であり、水分子です。
声や音は空気中を伝わる、音波という波であり、これは空気の分子の振動が、伝わっているわけです。
ですから、真空状態では、声や音は生じません。
地震は地面の揺れであり、地殻を構成している石や岩などが、振動を伝えているのです。
このように、一般的な感覚では、波は現象であって、波を生じさせる何かの存在が必要です。
しかし、光や電子にはその何かがありません。
どちらも波なのです。
しかし、小さな粒子のような性質も持っています。
これは矛盾であり、謎です。
でも、これが矛盾のように思えるのは、私たちの思考に、物質とは形のあるものだという概念が、しっかり根付いているからなのです。
それ以上は分解することができないと、言われていた原子が、今では多くの素粒子という、微少なエネルギーの集まりであることが、知られています。
素粒子には形はありません。
ですから、エネルギーとしか表現ができません。
そして、これらも波の性質を持っています。
つまり、光や電子もこれと同じことで、波か粒子かではなく、エネルギーなのですね。
波や粒子という概念は、日常の暮らしの中から生まれたものです。
それは物事の本質ではなく、人間が感知し得た、本質の一つの側面に過ぎません。
たとえば、水は置かれた条件によって、固体にもなれば、液体にもなり、気体にもなります。
どれか一つの状態しか知らない人にとっては、これらが全て同じ水だとは、理解できません。
水とは固体なのか、液体なのか、気体なのか、という議論が巻き起こるでしょう。
でも、それらは全て、水というものの一つの側面に過ぎません。
このように、一見矛盾に思えるようなことは、新たな理解へつながり、それによって世界観も変わって来るのです。
何かが矛盾に見えた時、どちらか一方を、そんなの有り得ないと、切って捨てるのではなく、双方が成り立つような受け止め方を、模索するべきでしょう。