楽観的と悲観的
物事をとらえるのに、楽観的や悲観的という言葉を使いますよね。
楽観的は物事を明るくとらえ、悲観的は物事を暗くとらえます。
物事を悲観的に見る人には、それなりの根拠があります。
それは、その人の経験や知識に基づくもので、こうなれば次はこうなる、と言ったような図式が、頭の中に出来上がっているのです。
その図式に照らし合わせると、どう考えても上手く行くはずがない、という結論に至り、悲観的になるのですね。
でも、この考えが正しいとするには、条件があります。
それはその人の経験や知識が、絶対的なものだというものです。
でも、そんなこと言えるはずがありませんよね。
別の人の経験や知識によれば、また違った結論が導き出されるでしょう。
結局は自分の考え方に対する固執が、悲観論の元になっていると言えます。
他の考え方や可能性について、思考できなくなっているのです。
悲観的になっていると、半分あきらめ気分です。
心配ごとに対しても、あきらめて何もしないか、何かをするにしても、どうせ無駄だという感じで、本気の行動を取りません。
その結果、悲観的な予想どおりの結末に至るわけです。
一方で、楽観的な人はどうかと言いますと、こちらは必ずしも経験や知識に基づいて、楽観的になっているわけではありません。
何とかなるよとか、その時はその時さ、という軽いノリの覚悟が、楽観的な考えの基盤になっているようです。
もちろん、経験や知識から考えて、大丈夫だと考える人もいるでしょう。
でも、悲観的な人と違って、楽観的な人は絶対に明るい未来が来ると、確信しているわけではありません。
明るい未来が保証されていないとなると、悲観的な人は、そこに不安を集中させますが、楽観的な人は、それを受け止める覚悟があるのです。
そう言いながらも、いざ困った状況になると、覚悟をしていたはずが、慌てふためく人もいるでしょう。
しかし、慌てることなく、覚悟をしていたように、自分が置かれた状況を見極めて、淡々とやるべき事をこなす人もいるのです。
この違いはどこにあるのかと言いますと、淡々と動ける人は、一見不幸に思われるようなことも、他の人とは違う視点でとらえるというところでしょう。
不幸の中にも、小さな幸せを見つけたり、将来への希望を見出す力があれば、何が起ころうと慌てることはありません。
その時にできることをして、一歩ずつ前に進むだけのことです。
それができずに、ただ楽観的というだけの人は、能天気な人と言われるでしょう。
能天気でない楽観は、誰もが持つべき視点です。
それに対して、悲観は思考停止を意味しますので、持ってはならない視点です。
楽観的に生きるとは、覚悟を持って生きるということであり、その時その時を前向きになって、懸命に生きるといことです。
それはつまり、過去を振り返ったり、将来を心配したりせず、今この瞬間を、一所懸命に生きるということなのです。
また、自分自身の生き方を認め、決して自分を否定しないということでもあります。
自分の心の赴くままに、生きるのです。
しかし、人は一人では生きられません。
それでも心の赴くまま生きられるのは、誰かの支えがあるからでしょう。
つまり、楽観的に生きるということは、人々を信じるということでもあるのです。