自己犠牲
自分の気持ちを抑えて、他の人のために動く。
そんな話は、よく美談として伝えられます。
本当はやりたいことがあるのに、辛抱して仕事をする。
本当は買いたい物があるのに、我慢してお金を他へ回す。
外国の事は、よく知りませんが、日本では自己犠牲が尊ばれる傾向が、あると思います。
大切な人を守るため、自らの命を犠牲にする。
こういう話は、多くの人の涙を誘います。
そして、自分を犠牲にした人は、人間の鏡とされます。
確かに、自分のことよりも、他人のことを考えて行動できる人は、素晴らしい感性を持っていると思います。
でも本人が、他人のために自分を犠牲にしたと、思ったかどうかは、本人に確かめてみなければ、わからないでしょう。
こういう方たちをお手本にして、人間とはこうでなくてはいけないと、思い込んでしまった人は、我が身を犠牲にして、他人を助けようとするかもしれません。
一方で、他人のために動くことが、自らの喜びだと感じる人は、咄嗟の場面で反射的に動いてしまいます。
その結果、自らの命を落としてしまうことも、有り得ますが、本人はそれを犠牲だとは、考えないに違いありません。
命を落とすのは結果であって、命を捨てたわけではないのです。
その行動の原動力は、ポジティブなエネルギーであり、その行動は、本人の意思に従ったものです。
それに対して、いい人間は自分を犠牲にするものだと、思い込んでいる人のエネルギーは、ネガティブです。
見た目は同じような行動であっても、エネルギー的には全然別物です。
親が子供に、人としての生き方を教える時、誰かのために行動する人を、お手本にすることは、よくあることです。
でも、そのお手本となる人が、他人のために自分を犠牲にしていると説明し、自己犠牲を美化してはいけません。
子供がそれを真に受けると、その子は将来、とても窮屈な人生を送ることになるでしょう。
場合によっては、悲惨な結末を迎えるかもしれません。
教えるのであれば、他人を助けることが自分の喜びであることの、素晴らしさを教えるべきなのです。
自分の喜びと、他人の喜びが一致する時が、最高の喜びであることを、教えないといけません。
自分が喜ぶことは大切です。
そこに加えて、他人が喜んでくれれば、喜びは何倍にも膨らみます。
その経験は、自分の喜びは誰かの笑顔だ、という思いを創るでしょう。
誰かにつくすために、犠牲は必要ないのです。
犠牲を求める風潮は、ブラック企業をはびこらせます。
誰かを利用して、自分が得をしようという、ずる賢い者たちに、力を与えることになるのです。
自己犠牲が当然のものとして強いられ、それを拒絶できない人には、悲劇が待っています。
自己犠牲を称賛したくなる時、自分はブラック企業や、ずる賢い者たちを応援しているのだと、考えて下さい。
自己犠牲はいらないのです。
まず、自分を大切にする。
自分を大切にできない人に、他人を大切にすることはできません。
そのためにも、まず自分を大切にするのです。
それを維持しながら、他人へも気持ちを向けると、自分を犠牲にしなくても、他人のために動けるようになります。
自分が満足し、世の中が喜びに満ちたものになるためにも、自分を大切にしなければなりません。