未来を思い出そう
過去を懐かしんで、思い出すことって、ありますよね。
あるいは、思い出したくもない過去も、あるかもしれません。
過去とは文字通り、過ぎ去ったことで、自分が経験あるいは認識したものです。
それは記憶として残り、私たちは記憶を探ることで、過去を思い出すことができます。
それに対して、未来というものは、これも文字通り、未だ来ないことであり、まだ経験も認識もできていないものです。
一寸先は闇という言葉があるように、次の瞬間のことでさえ、私たちは何が起こるのかがわかりません。
わからないから、ただ世の中の流れに流されたり、手探り状態で身動きが取れなくなったり、するのでしょう。
でも、過去と同じく、未来もすでに存在していて、それがどんなものかを、知ることができればどうでしょうか。
私たちは、未来はまだ未確定で、確かなものは何も存在していないと、受け止めがちです。
しかし、過去に対する記憶障害のように、未来についての情報を、すっかり忘れているとすれば、どうでしょうか。
人は何かを学ぶために、この世界に生まれて来るのだと、私は理解しています。
それが何であるのかを、今を生きる私たちは、覚えていません。
しかし、目的を持って生まれて来るということは、どういう未来に向かって進むべきなのかということが、すでに決められていると言えるでしょう。
それがわからないというのは、未来に対する記憶喪失ということになります。
でも、何かを学ぶためには、記憶がない方が好ましいのかもしれません。
何も知らないまま、ある状況において、どのような選択をするのか。
そこが重要なのだと思います。
ただ、本当に何も知らないというのではなく、大切な情報は無意識領域にあります。
ですから、目の前で起こっている状況に振り回されず、心の声を聞き取ることができれば、自分が進むべき道が、見えて来るでしょう。
過去のことを思い出す時と同じように、未来の記憶も、初めのうちはぼんやりした感じだと思います。
何となく、こっちかな、という具合でしょう。
しかし次第に、こっちだこっちだと、はっきり自分の進む道が見えて来ると、それは自分の道を、思い出して来たということです。
将来、どのような自分であるのか、どんな所で、どのような事をしているのか。
そういうヴィジョンが、具体的に目に映るようになって来た時、それを単なる想像や妄想だと、受け止めるかもしれません。
でも、本当はそうではなく、目指すべき未来像の記憶が、蘇ったと見た方がいいでしょう。
ああ、こうなる予定だったんだなと、未来の記憶を思い出したということです。
ただの妄想だととらえていると、せっかくヴィジョンが見えても、それを役立てることができません。
せいぜい、こうなれたらいいのになと、考えるにとどまってしまうでしょう。
でも、未来の記憶を思い出したと、受け止めるならば、そうだったと言いながら、すでにその未来像の自分になったつもりで、行動を取るに違いありません。
自分が何に興味を持っているのか、何を大切に思っているのか。
そういう想いは、未来の記憶を思い出していなくても、ぼんやりと進むべき方向を、示してくれます。
逆に、こんな事は絶対に嫌だ、こんなのは自分に合わない、と感じることは、進むべき道はそちらではないと、教えてくれます。
初めはこれらの方向指示器に従って、人生を進むことになりますが、そうしているうちに、自分が何を求めているのかが、明確に見えて来るようになります。
それが、未来の記憶が蘇って来た、ということなのです。
過去の記憶と同じように、思い出そうとして思い出せるものではありません。
でも、何かの瞬間、何かをきっかけにして、過去の記憶が蘇るように、ある瞬間、何かがきっかけとなって、未来の記憶も蘇ります。
何かが思い浮かんだ時、それが自分の未来の記憶かもしれないと、感じたならば、疑うことなく、その方向へ進むことをお勧めします。
それは必ずしも、現代社会で憧れとされるようなものでは、ないかもしれません。
でも、自分の未来の価値は、自分にしかわかりません。
自分がそこに心惹かれたなら、そこを目指して進むことが、あなたの取るべき行動なのだと思います。