混乱の意味
物事が思い通りに進んでいるうちは、心は安定しています。
刺激的なことがなくても、特に生活を脅かすようなものがなければ、心はそれなりに安定しています。
ところが、病気や怪我、事件や事故、あるいは今のような、社会全体の問題が起こると、それまでとは同じ状態を、維持できなくなると思って、混乱に陥ってしまいます。
何かの問題が起きても、個人個人の状況や状態が異なりますから、ある人は混乱していても、別の人は全く平気、ということもあるでしょう。
しかし、混乱の規模が大きくなると、そんな人たちをも巻き込むことになります。
混乱すると、人はパニック状態になります。
思考や行動を制御できず、何をどうすればいいのかが、わかりません。
何もできず動けなくなる人もいれば、思いがけない行動に出る人もいます。
それは生物として生き残ろうとする、本能的な側面が強いのですが、他の人とのつながりを考慮するという、人間的な側面も関わって来ます。
つまり、混乱の最中にどのような行動を取るかは、本能的な側面と人間的な側面が、どれほど強いかということで、決まると言えるでしょう。
普段は理性によって、精神状態をコントロールし、本来の自分とは別の自分を、装うことができます。
しかし混乱していると、理性が麻痺して、精神状態のコントロールができません。
その時の精神状態が、そのまま表に現れるのです。
貧富の差に関係なく、自分のことしか考えられない人と、他人への配慮ができる人では、取る行動が全く別のものになるでしょう。
身の回りのことが自分でできる人と、そうでない人の態度にも、大きな差が出るに違いありません。
臆病な人と、臆病でない人も、その違いは一目瞭然です。
普段の心の中には、本音以外に、いろんな要素が混じり合っています。
場合によっては、自分でもどれが本音なのかが、わからなくなるほどです。
それは、いろんな大きさの砂や石が、混ざり合っているような状態です。
ぱっと見た目には、砂が多いのか石が多いのか、よくわかりません。
混乱というのは、この砂や石の集まり全体を、大きな力で揺さぶるのと、同じです。
揺さぶられると、それまでまんべんなく混ざっていたものが、それぞれの大きさや重さによって、層をなしながら分離して行きます。
粉のような砂粒から、砂利のような石まで、きれいに分かれて行きます。
表面を見ただけでは、よくわからなかった、砂や石の構成割合が、分離することで一目瞭然になります。
そんな感じで、本音がよくわからない心の中も、混乱に陥ることで、どれが本音なのかが、露わになるのです。
これは個人的な混乱でも、社会的な混乱でも、同じことです。
混乱は自分でもわからなかった本音を、わかるように浮き彫りにしてくれます。
本音がわかれば、あとはそれに従うだけですが、本音の内容によっては、争いが起こるかもしれません。
争いを避けるためには、本音が違う者同士が、お互いの本音を尊重し合うか、別々に離れて暮らすかの、どちらかでしょう。
つまり、多様性を受け入れるか、受け入れないかの違いです。
そこは人間が優れた知性を、備えているかどうかが、試されるところでしょう。
いずれにしても、混乱とは本音を導き出す、一つのきっかけであり手段でもあります。
もし、同じような砂粒しかないものを、大きく揺さぶると、どうなるでしょうか。
砂粒しかなければ、どんなに揺さぶられようと、その中身は変わりません。
それと同じように、自分というものがしっかりしている人は、どんなに混乱している状況に追いやられても、他の人のように混乱することがありません。
揺さぶられはしても、心の中は常に一定の状態が、保たれているからです。
と言うことは、普段から自分の本音と向き合い、本音を大切にして、余計なものは捨て去るようにしていれば、世の中で何が起ころうとも、混乱しないと言えるでしょう。
このような人は経済社会を超えた、もっと大きな視点に立っています。
その視点に基づいた本音ですから、経済社会が揺らいでも、この人の本音が揺らぐことはありません。
では、経済社会を超えた視点に立つには、どうすればいいのでしょうか。
そのためには、生きるということ、自分という存在、宇宙や世界などについて、深く考える習慣を持つことが、大切だと思います。