物質世界の魅力
あの世のことは、死んでみないとわからないと言われますが、ヘミシンクという技術を使えば、死ななくてもあの世の様子が、うかがえるようです。
ヘミシンクというのは、アメリカの故ロバート・モンロー氏が、開発した技術です。
左右の耳にそれぞれ、わずかに波長の違った音を、同時に聴かせることで、脳内に左右の音の差になる、波長の振動が広がるというものです。
これによって脳の状態を、体外離脱ができる波長に調整すると、体外離脱体験ができるようになるのです。
そうやって肉体を離れた人たちの報告によれば、死後まもない人たちは、自分の思念が創った世界に存在しているようです。
楽しい所もあれば、寂しい所や居心地の悪そうな所もあるようで、そこがどんな世界であるかは、その人たち次第だそうです。
自分が死んだことを自覚している人には、生きていた頃を懐かしんで、好きな家や風景を、思念によって創り出すことを、楽しむ人がいるようです。
死んだことを自覚していない人たちは、死ぬ時に抱え込んでいた想いが、自動的に世界を創り出し、そこに留まっているみたいです。
寂しい気持ちであれば、寂しい世界に、怒りを持ち続けていれば、争いの世界に、という感じで、地獄のように思える世界もあるようですが、全てはその人たちが、自分で創り出しているということです。
いずれにしても、この世を離れて、意識だけの状態になっていると、想いがすぐに具現化して、何でも望んだとおりになってしまいます。
たとえば、パンが食べたいと思えば、目の前にパンが現れますし、そのパンはちゃんと食べることができるのです。
死んだ後は、この世で生きていた名残で、しばらくはそんな状態でいるようです。
しかし、やがてはそういう事はしなくなり、自分がどこの誰だったかということも、どうでもいい感じになるそうです。
その後は、肉体的な活動ではなく、意識としての活動が中心になるようです。
複数の意識が集まって、一つの世界を創るとしても、そこに集まっているのは、似たような波長の意識ばかりなので、異なる波長の意識とは、交わることがありません。
自分の意識が変わり、それに伴って波長が変化したら、新たな波長の世界へ、パッと移動するのだそうです。
しかし、自分が変わらない限り、ずっと同じ世界にいるわけで、居心地はよさそうですが、刺激には欠けるような気がします。
また、他を知らなければ、自分たちの状態がどんなものなのかを、客観的に確かめることもできません。
それに、似たような者が集まり、テレパシーで意思疎通をしていると、どれが自分でどれが自分でないかの、線引きが曖昧になるようにも思えます。
誰かと会話をしているのか、心の中で独り言を喋っているのかの、区別がつかなくなるような気がします。
逆に言えば、向こうの世界では、区別することに、意味を見出していないのかもしれません。
そんな風に、向こうの世界をイメージした上で、私たちが暮らす、この物質世界を振り返ってみて下さい。
この世界が何とも刺激的で、面白い所なのだということが、わかって来ると思います。
まず、自分という概念です。
先に述べましたように、自他の区別を重視していない存在にとって、自分と自分でないものが、ここまではっきりと分かれているというのは、驚きであり、新鮮なものに映るでしょう。
それは不安を引き寄せるかも知れませんが、それ以上に好奇心を沸き立たせるに、違いありません。
私たちが、当たり前に感じている、自分という存在、自分という概念が、実は何よりすごい体験なのです。
また、思ったことが、すぐに現実にならないという、もどかしさ。
向こうの世界と比べると、不自由きわまりありません。
それにテレパシーであれば、瞬時にすべてが伝えられたり、理解したりできるのに、この世界では、誰かに何かを伝えるのも大変です。
頭の中で、物事を整理して考えるというのも、時間がかかります。
場合によっては、理解すべき答えが、見つからないことだってあるわけです。
この時間という感覚と、それに伴う様々な不自由さ。
この、どうにももどかしい感じが、何とも言えない味を出しているのだと、この世界を体験した、向こうの世界の存在は、きっとうなずき合っていることでしょう。
それと、これはかなり重要なことですが、向こうの世界では、自分が変化しない限り、波長の違う世界を、体験することがありません。
つまり、波長の違う存在とは、出会うことがないのです。
しかし、この世界は違います。
自分と波長の違う人々が、うじゃうじゃいます。
波長の合う人を見つけることの方が、むずかしいです。
嫌でも違う波長に、合わせざるを得なかったり、見たくもないものを見せられたり、聞きたくもないことを聞かされたりするわけです。
それによって、自分の本来の波長が崩され、どんどん違う波長に変えられてしまうこともあるでしょう。
一方で、自分の波長というものを、改めて知ることになり、自分を大切にしようと思ったりするのです。
また、人間以外の生き物や存在とも、触れ合ったり、心を通わせ合ったりできるのも、この世界の素晴らしいところでしょう。
本来であれば出会えないような、存在たちと出会えるのが、この世界なのです。
私たちは、自分が一人でいることを、不安になったり心配したりします。
物事が思ったように行かないことに溜息をつき、魔法に対して憧れを抱きます。
自然を当たり前のことと思い、人間を特別な存在だと思い込んでいます。
でも、それらは全て、この世界に対する誤解でしょう。
自分が一人でいることも、魔法が使えず、何かと不便な思いをすることも、いろんな生き物や存在が、一緒にいることも、全部特別なことであって、それこそ有り難いことなのです。
そう、ありがたいことなのです。
全ては経験であり、学びです。
この世界を体験した者だけが、得られる経験であり、学びなのです。
いろいろ不自由な想いをされる人は、いると思います。
それでも、そもそもこの世界は、そういう所であり、それがわかった上で、産まれて来たのだと受け止めて下さい。
不自由ながらも、望みは叶うのです。
時間というものによって、望みと結果が、引き離されているだけなのです。
結果が出るまでの、時間というものを、どうやって楽しむかということに、意識を向ければいいと思います。
思いがけない事が起こって、驚かされたり感動させられたり、ということも、待たされる時間があってこそなのです。
私たちは不自由を楽しみ、波長の違う存在を知るために、ここにいます。
不自由がいけないものだというのは、この世界で作られた考え方であって、正しい考えではありません。
不自由は挑戦という好奇心を生み、新たな可能性を実現することに、つながるのです。
自分は、不自由さを楽しむために、この世界へ来たのだと、自分に語りかけてみて下さい。
きっと、新しいエネルギーが気合いとなって、湧き上がって来ることと思います。