人生の目的 その2
活き活きできる場所や、仲間と巡り会い、自分が生きる意味を、見い出せたと思っていた矢先、怪我や病気で自由を奪われたら、どうでしょうか。
実際に、そういう不運に出会う人は、存在します。
せっかく見つけた新天地も、自分がそこで活躍できなければ、意味がありません。
それは、再び自分が生きる意味を、見失うということでもあります。
その場合、どんな社会を想定しても、やはり自分の居場所は、見つからないかも知れません。
しかしそれは、自分自身がそういう境遇の人を、役に立たないとか、意味や価値がないと見なしている、ということになるでしょう。
口に出して、そういう事を言わなくても、きっと心の中で、そういう人たちを、気の毒にと思っていたはずです。
何故、気の毒に思うのか。
その人たちには、未来がないように見えるからです。
そんな境遇に、自分自身がなったとなると、絶望しかありません。
でも、本当に絶望しかないのでしょうか。
怪我や病気で動けない人には、本当に価値がないのでしょうか。
価値がないと考える場合、それは視野が狭いことの表れです。
動きが不自由であっても、それを補うことは、いくらでもできます。
本人のやる気と、周囲のサポートがあれば、いろんな可能性が出て来ます。
今の AI やロボット技術を用いれば、動けなくてもロボットを通じて、外の世界を体験することも可能でしょう。
また、そんな事ができなくとも、その人の存在そのものが、大切だという人がいます。
何かができる、何かをしてもらえる、という事ではなく、その人自身がいてくれることが、何より大切ということです。
こういう考え方は、自分や家族が不自由なく動けている間は、なかなか思いつきません。
本当に大切なこと。
それは、その人がそこに存在しているということです。
これは社会的な価値観とは、また別なものでしょう。
社会の立場で見ると、何らかの形で、社会の役に立つことを、求められます。
しかし、いるだけでいいという価値観は、人間社会を超越したものです。
意味も役割も考える必要がありません。
存在していることの喜び。
それを素直に感じさせてくれるのは、愛の力でしょう。
元々、私たちが体験している世界とは、私たちが創り出した幻影のようなものです。
私たちが知る世界とは、私たちの体を通して得た情報に、感情という色を付けたものです。
その世界は、私たちの外にあるのではなく、私たちの心の中にあるのです。
本当の私たちとは、心の存在であり、姿形は持ちません。
私たちが体験している世界とは、実は夢の世界と大差ないのです。
そんな世界での存在価値ではなく、心としての存在価値こそが重要です。
存在していることが嬉しいという思いは、最高の喜びでしょう。
臨死体験をした人や、体外離脱をした人が、愛に包まれる経験をするという話は、よく聞きます。
彼らはずっとそこに、留まりたいと思うのですが、結局はこちらの世界へ戻って来ます。
そのままそこに留まりたいと願うのは、恐らくそこが、私たちの本来の居場所だからでしょう。
それなのに、何故わざわざそこを離れて、苦しみが多いこの物質世界へ、入って来るのでしょうか。
誰かにむりやり、送り込まれているわけではなさそうです。
と言うことは、自らの意思によって、こちらの世界へやって来ているのでしょう。
だとすれば、そこにこそ、人生の目的と言えるものが、あるのではないでしょうか。