人生の目的 その1
私たちは何のために、生まれて来たのでしょうか。
この疑問を持ったことがある方は、多いと思います。
しかしこの疑問は前提として、自分が生まれて来たことには、理由があるはずだという思いがあります。
アリやゴキブリなどを見て、この虫は何のために、存在しているのだろうと、考えたこともあるでしょう。
可愛いペットの動物に対して、お前は何のために生まれて来たのか、とは考えません。
でも、人を襲うクマやイノシシなどについては、あいつらは何のために生まれて来たんだ、と思うかも知れません。
自分も含めて、その存在理由を探ろうとする時、人間はその存在に、何かの役割を見出そうとしています。
この、何のために生まれて来たのかという疑問は、何の役割があるのかという疑問に、言い換えることができます。
さらに別な言い方をすれば、その存在にどんな意味があるのか、という問いかけになるでしょう。
私たち人間が、あるいは自分という個人が、何のために生まれて来たのかと考えるのは、そこにどんな役割や意味があるのか、という思いがあるわけです。
しかし、役割とか意味というものは、それを判断する基準となる存在が必要です。
たとえば、ペットが役に立つとか意味があるとかいうのは、ペットの飼い主に対しての話です。
動物が嫌いな人にとっては、どんなに可愛いと説明されても、動物はいない方がいいのです。
人間の存在に役割や意味があるのかと考える場合、そこに神のような創造主、あるいは絶対的な存在を、想定しなくてはなりません。
それを想定しなければ、役割や意味ということを、考えること自体が無意味です。
でも、自分という個人の役割や意味となると、それは人間社会において、どうなのかという見方が成立します。
創造主から見た自分の役割や意味ではなく、社会から見た役割や意味、ということです。
それを見出すことができなければ、自分は無価値な人間だと思い込み、暗い人生を送ることになってしまいます。
しかし、そういう方には、もう少し突っ込んで考えて欲しいと思います。
それは社会とは何かということです。
改めて問われると、うまく答えられないかも知れませんね。
社会とは、何かの共通項を持った、集団を言うのです。
たとえば家族も、一つの社会です。
学校や職場も、それぞれが社会です。
趣味やスポーツの団体や、宗教や学問の組織なども、みんな社会です。
国や地域も社会ですし、男や女、あるいは大人や子供という分け方でも、社会は成立します。
人類全体を、一つの大きな社会と見ることもできます。
自分が無価値だと考える場合、このどれかの社会を、想定しているはずです。
それはその人が知っている社会であり、その社会の中で、自分の居場所が見つからないということです。
しかし大抵の場合、様々な社会があるのに、悩んでいる人が想定している社会は、ごく一部の社会です。
言い換えれば、その人の視野が狭くて、目に映る社会が、限られているということです。
自分が暮らす町で居場所がなく、思い切って外国へ行ってみると、全然知らない文化や価値観に迎えられ、自分への見方ががらりと変わる、という話はよくありますよね。
自分の存在に疑問を感じるということは、言ってみれば、チャンスなのです。
自分に意味や価値を見い出せないというのは、自分がいる場所が、そういう場所だということに過ぎません。
つまり、自分に疑問を抱いた時、それは自分の心が、違う所へ行きたいと、訴えているのです。
もっと自分が、活き活きと輝ける場所へ行こうと、心の奥底から、本音が叫んでいるのです。
それを邪魔するのは、自分のちっぽけな経験と、周囲に蔓延したネガティブな考え方です。
お前なんかに何ができるのか、というメッセージを、口や態度で示されると、自分には何もできないんだという、自己暗示にかかってしまいます。
この暗示にかかると、身動きが取れずに、苦しむ続けることになります。
また、外の世界を知らないのに、ここも他の所も同じだと、決めつけてしまう考え方も、自信のなさの表れで、大切な好奇心を封じ込めてしまうのです。
何かのきっかけ、あるいは誰かの助けで、今までいた場所から違う場所へ移ることになり、そこで生命力を取り戻すことはあるでしょう。
でも、暗い気持ちのまま移動した場合、それが原因で、行った先でも嫌な思いを、するかも知れません。
できれば、自分で自分の殻を打ち破り、自分の意志で場所を変えるのが、望ましいと思います。
その状態であれば、新しい見識を受け入れやすく、自分が相手を受け入れることで、相手も自分を受け入れてくれるからです。
とにかく、自分の存在に疑念を感じた時、それは本当の自分に覚醒するチャンスであり、その時期が来たという知らせです。
サナギから成虫の姿に変わった蝶は、サナギの殻を抜け出ると、その場所から新天地へと飛び立ちます。
それと同じ事なのです。
自分に疑念を抱いた時、それはそれまでの自分とは、違う姿に変わろうとしているのです。
つまり、サナギの状態になっているのです。
自分に自信を失っている人には、そのことを理解して欲しいと思います。