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伊佐庭如矢(いさにわ ゆきや)

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この方は、現在の松山観光の基盤を築いた方です。

3000年の歴史がある、道後温泉の辺りは、かつて道後村と呼ばれていました。

その一部は町村制施行により、1889年(明治22年)12月に、道後湯之町となりました。
その初代町長が、この伊佐庭如矢さんです。

明治6年、明治政府の廃城令によって、松山城は取り壊されそうになったそうです。

当時、伊佐庭さんは県の職員でした。

伊佐庭さんは松山城の公園化を訴え、松山城を壊さないよう、政府に請願しました。
その結果、松山城は廃城を免れたのです。

松山城は、松山の観光の目玉です。
町の中心にある山の上にあり、松山のシンボルになっています。

伊佐庭さんがいなければ、松山城は壊されて、城山だけが残されていたでしょう。
松山城が残されたのは、すごい功績です。

でも伊佐庭さんの功績は、これだけではありません。

道後湯之町の町長に、就任した伊佐庭さんは、当時老朽化が進んでいた、道後温泉の建物の改築に、取り組みました。

現在見られる建物は、この時に建築されたものです。

 ※なのかさんによる写真ACからの画像です。

当時の建物は、傷みが激しかったようですが、財政難のために放置されていたと言います。

それを壊して、今の建物を完成させるのにかかった費用は、今のお金にして、十数億円から二十億円以上だったそうです。

財政難の町が、出せる金額ではありません。

あまりにも高額な経費と、古くからある物を壊して、造り直すことへの抵抗から、相当の反対があったと言います。

伊佐庭さんが身の危険を、感じるような事もあったようです。

それでも伊佐庭さんは、100年後までも、他所が真似できないものを造ってこそ、初めて物をいうのだと述べたそうです。

そして、人が多く集まることで町が潤い、町が潤えば、みんなの暮らしがよくなるのだと、人々を説得したと言います。

伊佐庭さんは、自ら給料を返上して無給となり、町の人々に協力を仰ぎました。

その考えと姿勢に賛同した人たちは、自分たちの家や土地などの、不動産を担保にして、道後温泉の改築費用を、銀行から借りられるようにしてくれました。

伊佐庭さんの熱意が、人々に通じたのです。

いくら温泉の歴史が3000年と言っても、施設が整っていなければ、今のような観光客は訪れなかったはずです。

それが今では、毎年100万人以上の人が訪れる、観光施設となりました。

伊佐庭さんがいなければ、今の松山はありません。

松山の二大名所である、松山城と道後温泉。
この二つを、私たちに残してくれた事は、称賛に値します。

しかし、伊佐庭さんの松山への貢献は、これだけではありません。

当時は、海の玄関口である三津から、松山の町まで人や物を運ぶ、鉄道がありました。
しかし、道後温泉までの鉄道はありませんでした。

そこで伊佐庭さんは、既にある鉄道の終着駅から、道後温泉を結ぶ鉄道を独自に造りました。

そうやって、愛媛の外から訪れる人たちが、道後温泉を訪ねやすくしたのです。

 ※道後駅構内

また同時に、松山の町の中心から、道後温泉へ向かう路線も造りました。
これは町に暮らす人たちの、足になりました。

お陰で、道後温泉を訪れる客は、急速に増えて行ったと言います。

道後温泉のすぐ近くには、中世に伊予を支配していた豪族、河野氏の城がありました。

しかし、当時そこは、竹藪や雑木ばかりの、荒れ果てた所だったそうです。

伊佐庭さんは、ここもきれいに整備して、公園にしました。
それで、温泉客が公園を散策をして、楽しめるようになったのです。

大金がかかるとか、失敗したら責められるような事は、普通、誰もやりたがりません。
伊佐庭さんがやった事は、そんなものばかりでした。

伊佐庭さんは大きなビジョンを持ち、人々を説得するだけの、情熱がありました。
命の危険もあったのに、ひるまずに信念を貫きました。
自らも無給で働く姿を、人々に示しました。

そんな姿勢が、人々の信頼を勝ち得る事に、つながったのでしょう。

これだけ気概と情熱を持った方が、今の政治の世界には、どれだけいるでしょうか。
本気で人々のためになると考えて、動く人がどれだけいるでしょう。
国民や市民の喜びに満ちた顔を、思い浮かべられる人が、どれほどいるのでしょうか。

その人たちを選ぶのは、私たちです。
でも、選びようがないというのが、みなさんの声だと思います。

弱い立場の人を思いやり、頭が良くて夢がある、そんな人の登場が待たれます。