二つの道後温泉駅
道後温泉のすぐ近くには、松山市内の路面電車の、終着駅があります。
この路面電車は、松山市唯一の私鉄会社、伊予鉄道が運営しています。
ところで松山の西端には、三津という港町があります。
古くは伊予水軍の拠点として使われ、江戸時代には参勤交代で、殿さまが安芸(広島)まで往来する、水路の港として利用されていました。
明治時代になってからは、三津は松山の玄関口として、海路による人や物資の輸送拠点として、大いに発展しました。
小説「坊ちゃん」で、松山を世に紹介した夏目漱石も、船で三津に降り立ちました。
「坊ちゃん」の中で、マッチ箱のような汽車とされたのは、伊予鉄道がドイツのミュンヘンから輸入したものです。
現在街中を走っている坊ちゃん列車は、当時の汽車を再現したものです。
鉄道がまだなかった頃は、松山の中心から三津まで行くには、舗装されていない道を、歩いていました。
荷物を運ぶには、牛や馬に運ばせていましたが、雨などで道がぬかるんでいたりすると、運ぶのが大変だったそうです。
特に山で切り出した木材を、大阪まで運ぶのに、三津までの道には、難儀したと言います。
松山の中心から、三津までの距離は約6.5km。
それなのに、この6.5kmの木材の運び賃が、三津から大阪までの船賃よりも、高くついたそうです。
そこで木材運搬のための、線路を引こうとなり、市内中心と三津を結ぶ、伊予鉄道が誕生しました。
初めて見る汽車に市民は熱狂し、伊予鉄は貨物運搬よりも、人の運搬が主となったと言います。
こうして三津の町は、ますます盛況を迎えたのですが、問題がありました。
三津の海は遠浅で、大型船が港に、直接入ることができませんでした。
それで当時は、大型船は三津の沖に停泊し、そこから小型の船に、人や物を移し替えて、港まで運んでいたのです。
こんな事をしていては、松山の発展が遅れると、三津よりももっと北にある、高浜という所に、新たに港を造る計画が、立ち上がりました。
当然、伊予鉄も線路を高浜まで、延ばすことになりました。
これを知った三津の町民は、猛反発しました。
三津は松山の玄関口として、栄えて来たのです。
ところが高浜が玄関口になると、三津はさびれてしまうと考えたのです。
三津の人々は、高浜に港を造ることに、猛反対しました。
しかし計画は進められ、高浜に新しい港が、建設されたのです。
伊予鉄も終点を、三津から高浜に変更しました。
怒った三津の町民たちは、伊予鉄の利用をボイコットしました。
そして馬車で、汽車に対抗しようとしました。
しかし馬車で汽車に、勝てるわけがありません。
そこで自分たちでお金を出し合って、伊予鉄に対抗するべく、松山電気軌道という会社を興したのです。
松山電気軌道が作った路線は、伊予鉄の線路に平行するようにして、三津から松山の街中まで造られました。
しかし、それだけでなく線路はさらに、道後温泉まで続いたのです。
三津から道後温泉まで、直行できるというわけです。
観光や仕事で、松山を訪れた人には、便利ですよね。
しかも伊予鉄は軽便鉄道で、線路の幅は小さく、車両も狭いのに対し、松山電気軌道は線路幅が広くて、車両も広かったのです。
さらに伊予鉄は汽車なので、黒煙を吐きますが、松山電気軌道は名前の通り、電気で走る電車だったのです。
伊予鉄が開業した後、道後温泉と市内を結ぶ道後鉄道という、路線が造られました。
松山電気軌道が開業した頃、伊予鉄はこの道後鉄道を合併していたので、道後温泉には伊予鉄と松山電気軌道の、二つの駅が並ぶことになったのです。
両者は客の奪い合いをし、値引き合戦をしました。
松山電気軌道は、道後温泉の入浴料まで、負担したと言います。
伊予鉄は三津と高浜の間の、梅津寺という所に、海水浴場と遊園地も造りました。
松山電気軌道はこれにも対抗して、三津浜に海水浴場と遊園地を造り、松山の街の入り口辺りに遊園地も造りました。
そこまでやるかと言うぐらい、三津の人々の怒りのパワーは凄まじく、まるで映画かドラマでも観ているように思います。
それでも結局は、資金繰りが続かなくなり、松山電気軌道は伊予鉄に、合併されてしまうのです。
恐らく、そうなることは三津の人たちにも、わかっていたでしょう。
それでも自分たちの思いを、行動として表さざるを、得なかったということです。
列車の争いとしては、三津の人たちは、伊予鉄に敗北した形となりました。
しかしその意気込みは、歴史に残るほどになったのです。
この三津の人々の熱意というものには、見習うところがあると私は思います。
何でも政府の言うとおりになり、不満があっても我慢してしまう。
そんな傾向が日本人には強いのです。
言うべきところは、しっかり言うべきです。
しかし今、コロナ騒ぎをきっかけにして、多くの人が意見を、言うようになりました。
また、政府の指示を待たず、自分たちで行動を、示すようになったと思います。
松山電気軌道は資金が続かず、伊予鉄との戦いに、敗れてしまいました。
しかし、政府というものは、私たち国民が選ぶものです。
本気で争えば、国民が負けるわけがありません。
何が何でも政府に文句を言えと、言っているのではありません。
そうではなく、政府が筋が違うことをしたり、国民を切り捨てるような、態度を見せる時には、断固として反対する姿勢を、示すべきだと思うのです。