無償の愛2
愛とは、何なのでしょう。
相手をとことん好きになること?
相手を幸せにしてあげたいと思うこと?
ずっと、その人と一緒にいたいと思うこと?
これらの想いは、愛の本質ではありません。
愛を感じた結果です。
愛というのは、世界と自分が一つであると、認識・理解・実感することです。
言い換えると、自分と世界が、一つになっている状態ということです。
そして、そこには無上の喜びがあるのです。
何故なら、そこは自分にとって、本来の居場所であり、最も安らぐ所だからです。
人間も世界の一部ですから、誰かとの間に、とても安らぐ一体感を感じることができます。
誰かに愛を感じるというのは、その人との一体感を、感じているということなのです。
何を馬鹿なことを、と思われるかも知れません。
でも愛とは、そのような安らぎのある、一体感を言うのです。
人は自分自身の中に、嫌っている部分や、他人に知られたくない部分、あるいは許せない部分を、持っていることがあります。
自分を無能で役立たずだと思っていたり、誰にも愛されていないと感じていたり、生きている価値なんかない出来損ないだと、考えてしまうこともあるでしょう。
そんな自分を無条件に、まるまる全てを受け入れてくれて、大切な存在として抱きしめられるように、大きな安らぎに包みこまれたら、どう感じるでしょうか。
そして、自分もまた、自分を包みこんでくれている存在と、同じ存在なのだと知れば、どんな気持ちになるでしょうか。
それが愛という言葉で、表現しようとしているものなのです。
臨死体験や体外離脱体験をされた人の中には、このような経験をされている人がいます。
でも、そんな特別な体験をしなくても、大自然の中で、自然との一体感として、愛の本質を感じることもできます。
あるいは日常生活の中で、本当に仲間と言える人たちとの間に、一体感を味わっている時にも、愛の本質を感じていると言えます。
大切に飼っているペットや、大事に育てている植物との間にも、一体感を感じることもあると思います。
それもまた、愛の本質を感じているのです。
愛というのは、そういうものなのです。
男女の愛や家族愛、人類愛などと、見かけによって、異なる表現をするのは勝手ですが、本来の愛に区別はありません。
区別しているうちは、愛の本質が歪められて、理解されることになります。
愛とは、相手の全てを、無条件に受け入れるという事です。
それは理屈で行うことではありません。
相手と自分が同じ存在であると、感覚的に認識している結果のものです。
この認識なくして、形だけ相手を無条件に受け入れるのは、それは自ら相手の奴隷になるのと同じです。
それは愛とは呼べません。
そうする事で、自分は無償の愛に生きているのだと、思い込もうとしているだけです。
愛というのは、見かけの行動ではなく、相手との一体感なのです。
行動は、その結果として表れるものですから、行動だけ同じようにしたところで、意味がありません。
また、愛を感じているからと言って、必ずしもその相手と、一緒にいるとは限りません。
たとえば、心から愛していると言える、異性がいたとしても、その人と結婚するとは限らないのです。
結婚できなければだめだと、限定するのであれば、それは本当の愛とは言えません。
男女関係を持たないと、だめだと考えるのも同様です。
同性同士のカップルについては、いろいろ意見があるようですが、愛の本質を考えるなら、誰を好きになろうが、誰と一緒になろうが、そんな事はどうでもいい事なのです。
愛に条件はありません。
全ては人間社会が、愛を勝手に色分けしただけなのです。