無償の愛1
無償の愛。
この言葉から、どんな事をイメージしますか。
どんな見返りも求めない愛でしょうか。
それは、確かにそうなのだと思います。
無償の「償」という漢字には、むくいる、つぐなう、という意味があります。
つまり、無償というのは、むくいたり、つぐなったりという事が、ないという意味ですね。
辞典によると無償とは、報酬がない、あるいは、報酬を求めないこと、とあります。
ですから、見返りを求めない愛という説明は、間違ってはいないと思います。
でも、形のないものを、言葉で表現しようとすると、言葉にした瞬間に、そのものの本質が歪められてしまいます。
「言葉では言い表せない」という言い方で、表現しようとする事もありますからね。
では、無償の愛というものについて、考えてみましょう。
この言葉が、どのようなものを表そうとしているのかは、イメージできると思います。
でも、そのイメージは人によって異なるでしょう。
無償の愛というわけですから、これは愛の範疇にあるわけです。
という事は、愛が何かを理解していないと、無償の愛というものも、わかっているようで、よくわからないという事になります。
無償の愛という言葉があるという事は、有償の愛というものがあるわけです。
そして、無償の愛が特別なものであるならば、通常の愛は全て、有償の愛という事なのですね。
自分はこんなに愛しているのに、あの人は全然気づいてくれない。
あれもこれもしてあげているのに、あの人は何もしてくれない。
これだけしてあげたのに、恩を仇で返すなんて最低。
こんな風に考えてしまうのは、よくある事です。
これらは全て、見返りを求めているので、有償の愛ということになります。
でも大抵の場合、本人はそうは思っていません。
「あなたを愛しているの。有償だけど」
「誰より君を愛しているんだ。有償だけどね」
こんな風に愛を語る人はいないでしょう。
これではちっともロマンチックではありません。
本当は有償の愛であっても、表向きには無償の愛を装うものです。
「君さえいれば、僕は何もいらないよ」
「あなたを心の底から愛しているわ」
こんな言葉を口にしながら、数年後には別れているかも知れません。
人は愛に憧れます。
でも、本当の愛がどんなものかを、理解できていないと、憧れはいつまで経っても、憧れのままです。
そして、ほとんどの人が愛について、よく理解していないと言えると思います。
何故なら、愛というものを、有償・無償の区別をしているからです。
ここに水があります。
無色の純水です。
多くの人が水を求めて、それぞれの器を差し出します。
どの容器もいろんな色がついていて、注がれた水が無色には見えません。
でも、それぞれの人は、自分の器の水の色こそが、本当の水の色なのだと信じています。
そんな人たちが、ある瞬間にだけ、手についた水滴を、目にすることがあります。
その水滴は、無色に見えるのです。
水滴を見た人たちは驚き、口を揃えて言います。
無色の水というものが、この世にはあるのだと。
水がどんなものかを、知っている人が聞けば、とても滑稽なことでしょう。
でも、色のついた容器の水しか、見ることができないのであれば、それは仕方がないことなのです。
愛についても、これと同じことが言えます。
本来、愛には無償も有償もありません。
有償の愛というものは、愛を様々な色に歪めて、受け止めているのです。
私たちが、無償の愛という言葉を用いるのは、愛の本質を垣間見た時でしょう。
でも本当の愛に、無償という言葉は必要ないのです。
ところで、水は無色と述べましたが、海のように大量の水がある場合、水は無色ではなく、いわゆる水色になります。
とても淡い色なので、わずかな量の水では、その色を肉眼で見分けることは、むずかしいのです。
同じように、無償の愛と私たちが受け止めるものは、本来の愛の一面に過ぎません。
つまり、私たちが本当の愛だと考えているものは、愛の本質とは言えないのです。
私たちはどうしても、自分たちの生活の基準に合わせて、物事を判断しようとします。
そのため、物事の本質がわかりにくいのです。
愛の本質とは、私たちが通常理解しているものよりも、もっと大きく深いものです。