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無意識とのつながり その1

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 ※SnapwireSnapsさんによるPixabayからの画像です。

人間は覚醒時は、通常の意識で活動しています。

覚醒時には、無意識も活動しています。

しかし、通常の意識の方が、表に立ってしまうので、その存在にほとんどの人が、気がつきません。

ですから「無意識」という、得体の知れないもののような、名前を付けられているのです。

通常の意識は言語的・論理的思考で、活動します。

言語も論理も、人間社会におけるものですから、行動の基盤となる価値観も、人間社会に沿ったものである事が、ほとんどでしょう。

一方で、無意識は言語的・論理的思考は、用いません。

無意識の活動は、インスピレーション的なものです。

はっとした瞬間に、全てがわかるという感じです。

通常の意識が、何かで思い悩んでいる時、ふとした時に、そうだと答えを思いつく事があります。

それは通常の意識が、無意識とつながったからなのです。

無意識は常に、通常の意識に働きかけています。

しかし、通常の意識は日常の事で、手が一杯になっていて、とても無意識に耳を貸している、余裕がありません。

それがお風呂に浸かって、ぼーっとしている時とか、雄大な大自然に引き込まれている時など、通常の意識が普段の活動を止めていると、無意識の囁きが届くのです。

 ※adamkontorさんによるPixabayからの画像です。

通常の意識は、今という一瞬しか把握できません。

でも、無意識は今だけでなく、過去も未来も含めて、まるごと把握しているように思えます。

また、無意識からの情報というものは、他人の立場や想いまでが、含まれているようです。

つまり、自分の視点だけでなく、他人の視点も含めて、全体を把握しているように、見えるのです。

この事から考えると、無意識というものは、他人の無意識ともつながっている、と言えるでしょう。

そうでなければ、他人を思いやる気持ちなど、出て来ないと思います。

 ※ぶんこさんによるイラストACからの画像です。

私たちの体には、無数の神経が広がっていて、身体中のあらゆる部分に、その末端を伸ばしています。

一つ一つの神経細胞は、自分の担当領域の刺激を、感じているだけです。

その感覚情報は、上位の神経へと伝達され、さらに上位では神経細胞同士が、網の目のような、ネットワークを構築して、集められた情報の解析をします。

たとえば、眼球の網膜にある視細胞は、色や明るさを感じています。

一つ一つの細胞は、全体的な像の事は、わかりません。
色と明るさを感じているだけなのです。

しかし、網膜全体の視細胞の情報が、脳に集められて解析されると、そこに一つの画像が創られます。

これが視覚です。

そこに嗅覚や味覚、聴覚や触覚から送られた、情報が加えられ、全体的にそれがどんなものなのかという事が、脳の中で理解されるのです。

でも、それぞれの感覚情報を、送っている神経細胞たちは、全体的な事については、何一つ理解できません。

わかっているのは、自分が感じた感覚情報だけなのです。

それと同じように、私たち一人一人の人間も、直接理解できるのは、自分に関わる身の回りの事だけです。

もし、人類全体の無意識が、ネットワークを作ってつながっていたならば、どうでしょうか。

 ※Pete LinforthさんによるPixabayからの画像です。

恐らく、個人では理解できないような、物事の理解像というものが、人類全体の意識の中では、生じているのでしょう。

ですから、無意識は常に、全体的な事を把握しているのです。

そして、全体の中の一人として、通常の意識がどのように、活動するべきかも知っているのです。

個々の存在として別々にいる者同士が、互いに惹かれ合い、相手を自分以上に大切に想ったり、相手から同様の想いを、受け取ったりする。

そんな状態を、私たちは「愛」という言葉で、表現します。

男女の愛、家族愛、友情、絆、人類愛。

いろんな愛の表現がありますが、元は全部同じです。

そこに人間関係による、人間的な制限が加えられ、歪められた事で、様々な種類の愛が、生まれたのです。

でも、人間が作った勝手な基準を外してしまえば、全部同じ愛だとわかるでしょう。

 ※Gerd AltmannさんによるPixabayからの画像です。

互いにつながりを持つ無意識は、自分たちが別々の存在ではなく、一つの存在である事を、理解していると思います。

通常の意識同士が、いがみ合っていたとしても、無意識の領域では、お互いはしっかりと、つながり合っているのです。

相手も自分も、同じ大切な存在であると理解し合う。
この関係は、愛と言えるでしょう。

すなわち、無意識は愛に基づいて、活動しているのです。

そして、無意識から届く情報は、愛を表現したものなのです。


日本人は、愛という言葉を使うのに、気恥ずかしさを感じてしまいます。

でも大事なのは、「愛」という言葉ではなく、この言葉が表現しようとしているものです。

英語では Love と表現され、日本語では愛と表現されるもの。

Love と愛とでは、言葉から受け取るニュアンスが、微妙に違うような気がします。

しかし、双方の言葉が伝えようとしている、オリジナルのものは同じなのです。

そのオリジナルのものは、本来感じるものであって、言葉で伝えられるものではありません。

ですから、恥ずかしがり屋の日本人は、愛という言葉ではなく、オリジナルのものをイメージする事に、意識を向けたらいいと思います。

 ※Tomislav JakupecさんによるPixabayからの画像です。

日常の物事を判断する基準は、大抵が自分の経験や、他人から聞かされたものが、元になっています。

しかし、無意識からの声を元に、判断するようになれば、世の中の見え方が、変わると思います。

ぎすぎすして、暮らしにくいように見えていた世界が、温かく居心地のいい世界に、見えるようになるでしょう。