どう受け止めるか 2
自分に憎んでいる相手が、いるとしましょう。
どうしても、その相手の事を許せないとします。
でも、相手に対する見方は、必ず変わります。
時間がかかるかも知れませんが、いつかは相手を許せる時が来るのです。
誰かを憎み続けるのは、疲れます。
それに、憎んでいる間は、楽しみを放棄しているわけで、損な事です。
しかし、憎い気持ちを無理に消す事は、むずかしいでしょう。
そういう時は、憎い気持ちは無理に抑えず、脇に置いておきましょう。
そして、他の事に意識を向けるのです。
なかなか向かないかも知れませんが、とにかく他の方を見続けるのです。
そのうち、憎しみの気持ちは、少しずつ鎮まって来ます。
そうなると、少し物事を冷静に考える事が、できるようになります。
冷静になれば、楽しい事に目を向けやすくなって来ます。
楽しい事を続けられるようになれば、憎しみはますます薄れて来ます。
そのうち憎んでいた相手の事など、どうでもよくなってしまいます。
憎んでいる状態と、楽しんでいる状態を、比較する事ができるようになるからです。
心は安定を求めます。
何かを楽しんでいる時は、心が安定していて楽なのです。
怒ったり悲しんだりしている時は、心が不安定な状態ですから、疲れるのです。
本音では、そんな状態を続けたくはないでしょう。
楽しみを取るか、怒りを取るか。
その選択によって、憎んでいた相手への、見方が変わります。
相手の事など、どうでもよくなって、楽しさを選ぶ事もあるでしょう。
逆に、楽しさを選ぶ事によって、相手の事を、どうでもいいと思うようにもなるのです。
ひどい相手への憎しみを忘れるなんて、したくないと言うのであれば、それは自由です。
でも、それは憎しみを忘れる事が、人間として許せない事だという、思い込みでしょう。
どこにも、そんなルールはありません。
そんな風に考えてしまうのは、人生は一回こっきりで、死んだら全てがおしまいだという、発想があるのだと思います。
でも、死んでも全てが、おしまいになるわけでないと、知ったらどうでしょうか。
幽霊や前世の記憶などの事実は、人が生前や死後にも、存在し続けている事を示しています。
生前や死後の世界が、どのようなものなのかは述べません。
しかし、人の存在が一つの人生に、限定されているわけではないと、言う事はできると思います。
人は死んでおしまい、というわけではありません。
ですから、この世に生まれ出るという事には、何らかの意味があるのに、違いありません。
知性体である人間が、知性を発達させる事は、人として自然な成長です。
だとすれば、人生における嫌な事も、何か意味があるのではないでしょうか。
その意味を知るには、出来事を表面的に見るのではなく、いろんな角度で見る必要があります。
今の角度で見ると、ただ憎しみが湧くだけの出来事でも、別の角度から見れば、相手への理解が生まれるかも知れません。
それは元の角度における、憎しみという見解を、否定するものではありません。
自分の立ち位置が違うから、眺める出来事が、異なったように見えるだけです。
いろんな角度から見た情報は、総合的な理解をもたらすでしょう。
それは単なる憎しみとはなりません。
相手を憎らしく思う気持ちは持ちながら、出来事そのものを、違う思いで受け止めるようになるのです。
物事に対する立ち位置を変える事で、受け止め方が変わるのです。
それは人としての成長です。
しかし、立ち位置を変えられるようになる前に、運悪く世を去る人もいます。
そんな方たちは、この世を離れてから、自分の人生を振り返り、何て無駄な時間を、過ごしてしまったのかと、後悔するかも知れません。
繰り返しますが、物事をどのように受け止めるかは、自由なのです。
その代わり、その受け止め方によって、人生の質が決まります。
豊かな人生を送るためには、多くの英知を手にする必要があります。
今の自分がつまらない。
人生なんて、ちっとも面白くない。
そう感じてしまうなら、人生とは何なのかと、深く考えてみて下さい。
そうすれば、少しずつ人生は、それまでとは違ったものに、変わって行くと思います。