認められたい気持ち その2
手を見て下さい。
手には5本の指があります。
私たちは人類という、大きな意識の一部です。
人類の意識が、この手だとすれば、私たち個人個人の意識は、一本一本の指先です。
何かを手で探った時、手は全ての指の感覚を、総合的に感じ取り、触れている物が、何かを確かめます。
一つの指先の感覚に集中していると、他の指の感覚はわかりません。
当然、全体的な感覚もわかりません。
これが今の私たちの状態です。
他の指と離れて孤立していると、感じているのです。
しかし、孤立はしていません。
そんな事は不可能です。
今の私たちは一つ一つの指先ですが、それは手の一部です。
どの指も、手を介してつながっています。
本来の存在としては、私たちは手なのです。
今は自分に割り当てられた、指先の人生を確かめているのです。
だから、どの人の人生も重要ですし、価値があるのです。
自分では、全然面白くない人生のように、感じるかも知れません。
でも、判断は手の意識で行うのです。
そして、手にとって無駄な指は、一本もないのです。
指の爪近くの関節から、指の先端までを、私たちが自分だと認識している、意識だとします。
その関節から次の関節までの間は、潜在意識です。
まだ、言語にならない想いの塊が、ある部分です。
そして、さらに上が無意識です。
無意識は手を介して、他の指の無意識とつながっています。
全ての無意識が、一つになっている手全体は、人類意識です。
潜在意識には、思考が言語の形になる前の、想いの塊があります。
パンで言えば、まだ形ができていない、焼く前の生地の状態です。
価値観や思い込み、信念などは、この領域にあります。
自分は独りぼっちだという概念も、ここにあるのです。
理屈を処理しているのは、指先の部分の意識です。
理屈では、自分は独りぼっちでないと、わかっている。
でも、やっぱり孤独で、寂しく感じてしまう。
そういう時は、指先の意識と、その上の潜在意識で、対立が起きているのです。
無意識からは、あなたは一人じゃないよという、感覚的な情報が送られます。
でも、潜在意識にある、独りぼっちなんだという想いが邪魔をして、指先の意識にまで伝わらないのです。
では、どうすればいいのかと言いますと、やはり、まずは理屈で、潜在意識の歪んだ想いを、なだめながら説得することです。
歪んだ想いを否定したのでは、解決になりません。
否定すればするだけ、歪んだ想いは、かたくなな態度を、見せるようになります。
否定するのではなく、子供に言い聞かせるようにして、理屈をわからせるのです。
私は独りぼっちだと、潜在意識が訴えます。
それに対して、ほら、違うでしょ、独りぼっちじゃないでしょ、と状況を説明しながら、根気よく語りかけるのです。
そうしていると、潜在意識にある想いの力が、弱まります。
すると、無意識と気持ちが、つながりやすくなります。
無意識から伝わってくるものは、理屈ではありません。
感覚的な理解です。
それがうまく伝われば、潜在意識の歪んだ想いも、完全に納得してくれるでしょう。
でも、無意識に気持ちをつなげるには、どうすればいいのでしょう。
瞑想がいいと思います。
何も考えず、ただ心の奥底から伝わるものを、感じるようにするのです。
そんなの無駄だよ、馬鹿みたい、なんて考えると、無意識の想いは伝わりません。
静かに抵抗することなく、何でも受け入れる気持ちで、ただ感じていればいいのです。
初めのうちは、潜在意識にある想いが抵抗して、嫌な気持ちや考えが、雑念として浮かんで来るかも知れません。
でも、それは否定することなく、ただ受け流しておけばいいのです。
同調して感情的になると、失敗です。
テレビでもぼんやり眺めているように、何が見えても、何が聞こえても、他人事のように受け流すのです。
すると、やがて心は静かで穏やかに、なって行きます。
今まで悩んでいたことが、どうでもいいような気分になるでしょう。
この時、あなたの心は無意識と、つながることができているのです。
何かを言語的、論理的に考えるのは、通常の意識の仕事です。
無意識の思考は、抽象的、感覚的です。
通常の意識の思考は、一本の線のようです。
内容を一つ一つ順番に、並べて構成されています。
無意識の思考は、点です。
全てが一点に凝縮されています。
ひどい空腹に襲われている時、目の前に大好物を置かれたと、想定して下さい。
お腹が空いた。
何かが食べないと、死んでしまう。
あ、これは私の大好物だ。
早く食べたい。
でも、お金がない。
だけど、食べたい。
食べてもいいでしょ?
ああ、食べたい。
もう、殺されてもいいから、絶対に食べてやる。
ねえ、ちょうだい、お願いだから。
くれないなら、あんたを殺してやる。
こんな感じの気持ちが、言葉にならないまま、頭の中で一塊になっているでしょ?
この言語という形になる前の想いが、無意識における思考なのです。
ですから瞑想の時には、言語になる前の想いに、注目して下さい。
ふっと、ある考えが浮かぶような感じです。
その考えを言語に変換しないまま、理解して下さい。
その考えには、時には感覚や感情が、伴います。
それもまた、言語ではない、無意識における思考です。
思考と言うより、思念と言った方が、適切かも知れません。
無意識が、あなたは独りぼっちではないと伝える時、目に見えない何かと、しっかり結びついている感覚や喜びが、理解とともに、あなたの心の中に、流れ込んで来るでしょう。
そこまで感じられなくても、安心感が出ていれば大丈夫です。
それは無意識を通して、自分が他の人たちと、つながっていることを、感じている証拠です。
この世界で、孤独に見えるのは当たり前で、別に嘆くことではないのだと、自然な気持ちで、考えられるようになるでしょう。
また、全ての人とつながっていると、感じられたなら、直接顔を合わせる人々が、それまでとは別人のように、思えるようになるのです。
あなたは孤独ではありません。
孤独だと思い込んでいるだけです。
孤独な人は一人もいません。
みんな、つながっているからです。
あなたは既に、認められた存在です。
改めて、この世界で誰かに認めてもらおうと、考える必要はありません。
あなたは自由です。
自分の思ったとおりに、生きて構わないのです。
道端に咲いている、小さな花に目を向けて下さい。
人に気づいてもらえなくても、懸命に花を咲かせています。
花を咲かせることができたなら、黙っていても、ミツバチや蝶々が来てくれます。
あなたの花を喜んでくれるのです。
それと同じです。
あなたは誰かに気づいてもらおうと、足掻く必要はありません。
素の自分を出して、そのまま自分の進みたい道を、思う存分歩めばいいのです。
そこには必ず、あなたを理解し、喜んでくれる人が待っています。
あなたの道を、進んで下さい。
そして、あなたの命の花を、咲かせて下さい。