安楽死
筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が、病苦から死を望み、その希望に添う形で、この女性患者に薬物を投与して殺害した、医師二人が逮捕されました。
この事に対して、安楽死の権利についての意見が、いろいろとネット上に出ています。
日本では薬剤を投与して、積極的に患者を安楽死させることは、法律で禁止されています。
禁止されている明確な理由は、わかりません。
恐らく安楽死を望むことが、通常の自殺願望と同等に、見られているからだと思います。
病気によって、将来への希望を失い、痛みや苦しみの日々を送ること。
それは、救いが来ない拷問を、毎日受けているようなものなのでしょう。
希望もなく、いずれは死ぬのであれば、苦しみながら死を待つよりも、今すぐに苦しみから逃れられる方がいい。
安楽死を望む人は、こう考えるのだと思います。
では、健康な身体を持っている方の、自殺願望については、どうでしょうか。
肉体的には病気がなくても、自殺を望む人は、精神的には追い詰められて、病んだ状態です。
端から元気に見えたとしても、本人にすれば、苦痛の毎日が続いているのです。
その苦しみから、逃れられるのであれば、辛抱のしようもあるでしょう。
でも、どうしようもなければ、死ぬことで苦しみから、逃れたくなるのです。
彼らは、苦しみたくて死ぬわけではありません。
苦しみから逃れたくて、死のうとするのです。
ですから、死ぬ方法を一人で悩みながら、いろいろ考えるのだと思います。
もし、苦しんだり痛みを感じずに、死ねる方法があるのなら、その方法に迷わず飛びつくことでしょう。
安楽死を望むのは、身体的な病気を、抱えている人だけではないのです。
大好きな人が、自殺をしたいと言ったら、みなさんはどうしますか。
必死になって、止めるのではありませんか。
どうして死にたいと思うのか、その理由を聞くでしょう?
そして、その人が死にたいと思わなくて済むように、いろいろ考えたり、協力したりするのではないでしょうか。
ところが、慢性疾患の方が死にたいと言ったら、本人の死ぬ権利の話になってしまいます。
そこに、私は違和感を覚えます。
本当に苦しむだけで、何一つ希望も楽しみも、提供してあげられない。
そんな方が、自らの人生に、終止符を打ちたいと考えた時、その意思を尊重してあげるべきか、関係者の間での、真剣な検討が必要です。
もちろん、現行の法律とは、別の話です。
でも、何か一つでも楽しみを、与えることができるのであれば、そちらを優先するべきだと思います。
ただ、家族や現場の人間だけで、患者さんの楽しみを見つけられるのか、提供できるのかと言うと、限界があります。
本当は何か、アイデアがあるかも知れないのに、そこにいる人たちでは、それがわからないということは、有り得ます。
たとえば、今の科学技術を使えば、寝たきりのはずの人を、動かすこともできるかも知れません。
あるいは、その人を動かせないとしても、その人の代わりに動いてくれる、ロボットを作ることは、できます。
そのロボットを通して得た情報を使い、その人がバーチャル世界を体験するように、外の世界を堪能できるということも、考えられるでしょう。
そうすれば寝たきりの人が、実際に外の世界を、歩き回っているような、体験ができるのです。
問題があるとすれば、費用でしょう。
これをするとなれば、かなりの金額が、必要となると思います。
余程の大金持ちでない限り、とても患者さんや家族の方に、支払えるとは思えません。
では、誰が支払うのか。
それは決まっています。
税金です。
こういう患者さんたちの苦悩を理解し、何とかしてあげたいと思うなら、税金でロボットを作ることに、誰も反対しようとは、思わないでしょう。
反対するのは、他人の苦痛など気に留めない、利己的な人だけです。
ロボット以外にも、意識さえしっかりしているのであれば、その人の目の動きや、脳波をとらえることによって、その人が楽しめる装置を、いくつでも考案できると思います。
そんなことを考えるのが、大好きな人は、世の中にいくらでもいます。
そういう人たちの力を、遠慮なく借りればいいのです。
そうなれば、今、死にたいと考えている人も、死ぬのはもう少し後で構わないと、思い直すのではないでしょうか。
今回亡くなった方と、同じ病気の方が言っておられました。
本当は生きていたいと思っていても、自分が生き続けることで、家族や周りの人たちに、迷惑をかけてしまう。
だから、死にたいと考えてしまうのですと。
本当は生きていたい。
それが本音なのに、周りに遠慮をして、死を望むだなんて、せつな過ぎると思いませんか。
こういうこともありますから、国も安楽死というものを、安易に認めるわけにはいかないのでしょう。
それに、今回の事件のように、安楽死を商売にする者も現れます。
これでは自殺サイトで、自殺願望のある人を集めて、死なせてあげるのと同じです。
慢性疾患の方の安楽死の問題を、死ぬ権利という言葉を使うことで、曖昧にしてはいけません。
何故、その人が死を望むのか、そこをよく確かめるべきでしょう。
そして、少しでもその人が快適に過ごせるよう、できる努力を全てしたのかと、社会は考える必要があると思います。
最後に死しか選べない、という状況は確かにあります。
でも、他に選択肢がある状況の方が、遥かに多いでしょう。
ただ残念ながら、他に選択肢があるのに、それに気がつかなかったり、誰にも提供してもらえないというケースが、ほとんどなのだと思います。
今回の事件で、尊厳死というものについて、議論が続くかも知れません。
それは、それで構いません。
議論が必要なことは、議論すればいいのです。
でも、本当に議論すべきなのは、尊厳死の話ではありません。
どうすれば、この方が死を望まずに済んだのかと、いうことだと思います。