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安楽死

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 ※Zahid H JavaliさんによるPixabayからの画像です。

筋萎縮性側索硬化症(ALS)の女性患者が、病苦から死を望み、その希望に添う形で、この女性患者に薬物を投与して殺害した、医師二人が逮捕されました。

この事に対して、安楽死の権利についての意見が、いろいろとネット上に出ています。

日本では薬剤を投与して、積極的に患者を安楽死させることは、法律で禁止されています。

禁止されている明確な理由は、わかりません。

恐らく安楽死を望むことが、通常の自殺願望と同等に、見られているからだと思います。

病気によって、将来への希望を失い、痛みや苦しみの日々を送ること。

それは、救いが来ない拷問を、毎日受けているようなものなのでしょう。

希望もなく、いずれは死ぬのであれば、苦しみながら死を待つよりも、今すぐに苦しみから逃れられる方がいい。

安楽死を望む人は、こう考えるのだと思います。

では、健康な身体を持っている方の、自殺願望については、どうでしょうか。

肉体的には病気がなくても、自殺を望む人は、精神的には追い詰められて、病んだ状態です。

端から元気に見えたとしても、本人にすれば、苦痛の毎日が続いているのです。

その苦しみから、逃れられるのであれば、辛抱のしようもあるでしょう。

でも、どうしようもなければ、死ぬことで苦しみから、逃れたくなるのです。

彼らは、苦しみたくて死ぬわけではありません。

苦しみから逃れたくて、死のうとするのです。

ですから、死ぬ方法を一人で悩みながら、いろいろ考えるのだと思います。

もし、苦しんだり痛みを感じずに、死ねる方法があるのなら、その方法に迷わず飛びつくことでしょう。

安楽死を望むのは、身体的な病気を、抱えている人だけではないのです。

 ※Mandy FontanaさんによるPixabayからの画像 です。

大好きな人が、自殺をしたいと言ったら、みなさんはどうしますか。

必死になって、止めるのではありませんか。

どうして死にたいと思うのか、その理由を聞くでしょう?

そして、その人が死にたいと思わなくて済むように、いろいろ考えたり、協力したりするのではないでしょうか。

ところが、慢性疾患の方が死にたいと言ったら、本人の死ぬ権利の話になってしまいます。

そこに、私は違和感を覚えます。

本当に苦しむだけで、何一つ希望も楽しみも、提供してあげられない。

そんな方が、自らの人生に、終止符を打ちたいと考えた時、その意思を尊重してあげるべきか、関係者の間での、真剣な検討が必要です。

もちろん、現行の法律とは、別の話です。

でも、何か一つでも楽しみを、与えることができるのであれば、そちらを優先するべきだと思います。

ただ、家族や現場の人間だけで、患者さんの楽しみを見つけられるのか、提供できるのかと言うと、限界があります。

本当は何か、アイデアがあるかも知れないのに、そこにいる人たちでは、それがわからないということは、有り得ます。

 ※acworksさんによる写真ACからの写真 です。

たとえば、今の科学技術を使えば、寝たきりのはずの人を、動かすこともできるかも知れません。

あるいは、その人を動かせないとしても、その人の代わりに動いてくれる、ロボットを作ることは、できます。

そのロボットを通して得た情報を使い、その人がバーチャル世界を体験するように、外の世界を堪能できるということも、考えられるでしょう。

そうすれば寝たきりの人が、実際に外の世界を、歩き回っているような、体験ができるのです。

問題があるとすれば、費用でしょう。

これをするとなれば、かなりの金額が、必要となると思います。
余程の大金持ちでない限り、とても患者さんや家族の方に、支払えるとは思えません。

 ※acworksさんによる写真ACからの画像です。

では、誰が支払うのか。

それは決まっています。
税金です。

こういう患者さんたちの苦悩を理解し、何とかしてあげたいと思うなら、税金でロボットを作ることに、誰も反対しようとは、思わないでしょう。

反対するのは、他人の苦痛など気に留めない、利己的な人だけです。

ロボット以外にも、意識さえしっかりしているのであれば、その人の目の動きや、脳波をとらえることによって、その人が楽しめる装置を、いくつでも考案できると思います。

そんなことを考えるのが、大好きな人は、世の中にいくらでもいます。

そういう人たちの力を、遠慮なく借りればいいのです。

そうなれば、今、死にたいと考えている人も、死ぬのはもう少し後で構わないと、思い直すのではないでしょうか。

今回亡くなった方と、同じ病気の方が言っておられました。

本当は生きていたいと思っていても、自分が生き続けることで、家族や周りの人たちに、迷惑をかけてしまう。

だから、死にたいと考えてしまうのですと。

本当は生きていたい。

それが本音なのに、周りに遠慮をして、死を望むだなんて、せつな過ぎると思いませんか。

こういうこともありますから、国も安楽死というものを、安易に認めるわけにはいかないのでしょう。

それに、今回の事件のように、安楽死を商売にする者も現れます。

これでは自殺サイトで、自殺願望のある人を集めて、死なせてあげるのと同じです。

慢性疾患の方の安楽死の問題を、死ぬ権利という言葉を使うことで、曖昧にしてはいけません。

何故、その人が死を望むのか、そこをよく確かめるべきでしょう。

そして、少しでもその人が快適に過ごせるよう、できる努力を全てしたのかと、社会は考える必要があると思います。

 ※Zhivko DimitrovさんによるPixabayからの画像 です。

最後に死しか選べない、という状況は確かにあります。

でも、他に選択肢がある状況の方が、遥かに多いでしょう。

ただ残念ながら、他に選択肢があるのに、それに気がつかなかったり、誰にも提供してもらえないというケースが、ほとんどなのだと思います。

今回の事件で、尊厳死というものについて、議論が続くかも知れません。

それは、それで構いません。
議論が必要なことは、議論すればいいのです。

でも、本当に議論すべきなのは、尊厳死の話ではありません。

どうすれば、この方が死を望まずに済んだのかと、いうことだと思います。