レッテルを貼るな その2
競争の激しい社会の中では、そこで秀でた存在になるための条件が、まことしやかに言われがちです。
たとえば、優秀な人物になるのなら、何歳から訓練を始めなくてはならないとか、何歳を過ぎてからではもう遅いとか。
大学を出ていなければ、競争社会で生き残るのはむずかしいとか。
お金とコネがなければ、上には上がれないとか。
人間を勝ち組と負け組に分けて、勝ち組だといいけれど、負け組だと情けない人生だとか。
そうしたレッテルを貼ることで、自分は世の中を知っているのだと、言いたげな人がたくさんいます。
でも、その結果として、人生をあきらめなければならない人も、少なくありません。
本当は何もわかっていないのに、わかったつもりになって、自分自身に無価値のレッテルを貼ってしまうと、自分で自分を封印するようなものです。
わからないことは、わからないでいいのです。
お前、そんなこともわからないのかと、笑う者はいるでしょう。
そんなのは世の中の常識だぞと、言う者もいるでしょう。
でも、彼らも本当のところは何もわかっていませんから、どうしてそうなのかという、きっちりとした説明はできません。
何かを根拠にして説明するのですが、その根拠が正しいことが前提です。
どうしてその根拠が正しいのかと聞かれると、たちまち言葉に窮してしまうでしょう。
レッテルどおりに行かない人は、どこにでもいるものです。
歳を取ってから、新しいことに挑戦して、素晴らしい結果を出す人もいます。
素人のはずなのに、それまでになかったような、新しい芸術の風を吹かせる人もいます。
you tubeなどのネット動画などを見れば、日々、素人の人たちが、素晴らしいものを見せてくれます。
でも、レッテルにこだわる人たちは、そういう人たちに目を向けないでしょうし、目を向けても、そんな人たちが特別で例外なのだと考えるでしょう。
自分の人生ですから、その人が何をどのように考えても自由なのですが、その人たちの考えを、他の人たちに強要することはできません。
他の人たちも自由なのです。
誰かが何かにレッテルを貼ったとしても、それはその人が考えたレッテルに過ぎず、絶対的なものではないのだということを、常に知っておく必要があります。
たとえ、その人がものすごい経歴の持ち主であったり、権威のある人であったとしてもです。
親や先生であっても、同じことです。
その人物が、それはこんなものだとレッテルを貼ったとしても、それを鵜呑みにしてはいけません。
そして、実際にレッテルとは異なる人の存在を知ったのであれば、その人たちを特別視するのではなく、自分にもその可能性があるとういことを、知るべきでしょう。
自分はわかっていないのだという謙虚な姿勢こそが、物事を新鮮に見せてくれますし、失敗を恐れずに、興味を持ったことに挑戦することができるのです。
レッテルを貼るのは、この人わかってるなと、他人から見てもらいたいという、気持ちの表れです。
他人の評価なんか気にしなければ、何に対してもレッテルを貼ることなく、新鮮な気持ちで接することができるのです。