自分を生きる その2

今、自分がいる世界が、立体映像のバーチャル世界だと考えてみて下さい。

あなたが自分だと思っているのは、バーチャル世界に属している、あなたのアバターです。

映画はスクリーンの中で、物語が進行します。

観客は座席に座って、その映像を眺めながら、そこに登場する人物と自分を重ね合わせ、笑ったり泣いたり怒ったりします。

でも、いくら登場人物と自分を同一視したところで、スクリーンの中に展開される物語を、どうこうすることはできません。

そこに悲劇が描かれていたならば、登場人物と一緒に、その悲劇を体験することになります。

自分を生きていない人たちは、この映画の観客と同じ状態にあると言えます。

あなたのアバターは、あなたが何も指示を出さなくても、規定の思考に従って、決まったような行動をします。

平日と休日では、思考や行動に変化が見えますが、それは規定の範囲内です。

自分で考えて動いているようでも、普段の考え方や価値観を基盤とした、自動的な動きに過ぎません。

それをあなたは、自分が考えて動いているような気持ちで、アバターと共に体験するのです。

世の中に大きな問題が起きたなら、あなたのアバターは右往左往します。

ルーティンとは異なる状況に、どう対処すればいいのかわからないからです。

それは、アバターと自分を同一視している、あなたの体験となります。

そして、目の前に起きている状況に、何も対処できないことに、絶望と無力感を感じるのです。

でも、ゲームの主人公を自分で操作するように、アバターを自分の意思で、好きなように動かすことができたなら、状況は一変します。

大変なことが起こっていれば、そこから逃れることもできますし、それに何らかの対処をすることもできます。

また、自分が好きなようにアバターを動かすわけですから、自分が望むようなことを、アバターを通して体験することができるのです。

映画の中の悲劇に対し、ただ涙を流して眺めているのではなく、本当に映像の中の登場人物になって、物語の展開に変化を加えることができたなら、悲劇は悲劇でなくなるでしょう。

自分を生きるということは、そういうことなのです。