人生の目的 その3
世界を探求して行くと、自分自身も世界の一部であることに、気がつくでしょう。
世の中には、自分が生まれる前からある、常識や価値観が蔓延しています。
なので、知らないうちに、それが当たり前のことだと認識し、世界とはそのようなものなのかと、自分で探求しないまま納得してしまうのです。
でも、自分が世界の一部だと気づくと、自分が従うべきなのは、世の中に蔓延している価値観ではないとわかるでしょう。
自分は世界の一部、自然の一部だと思えば、自然な存在としての自分について、考えるようになります。
それは自然な存在としての人間とは、どのようなものなのかということを、考えることです。
人間というものを考える時、性善説と性悪説という言葉に、出会うかもしれません。
人間という生き物は、生まれつき善なのか悪なのか、という話です。
誰にでも優しく思いやりのある人を見ていると、人間とは善の存在だと思ってしまいます。
一方で、人を傷つけても平気であったり、戦争で同じ人間である相手を、たくさん殺して喜んでいる姿を見ると、人間とは悪の存在ではないかと思いたくなります。
でも、自然界の中にも、殺したり殺されたりという状況はあるわけで、それを一つ一つとらえて、この生き物は善で、この生き物は悪だという表現はしません。
人間にとって都合がいいか悪いかで、その生き物のことを、いいとか悪いとかいうことはあります。
でも、それは人間の勝手な基準であり、自然には関係のないものです。
そう考えると、善か悪かという考え方も、人間が自分の立場で勝手に決めているだけだと、わかると思います。
自然の中に善も悪もありません。
善か悪かというのは、目の前に起こっていることを、どのような立場で判断するかで違って来ます。
善に見えることも、悪に見えることも、どちらも事実です。
その両方を考慮した上で、全体的な理解をしなければなりません。
ですから、自分はだめだ、価値がないと思いがちな人は、違う視点で自分を見つめてみたらいいでしょう。
そうすれば、自分ではだめだと思っていた点が、逆にいいものに見えて来ると思います。
また、自分が他人に都合のいい価値観をすりこまれ、それで自分を判断するように、思い込まされていたと気がつくでしょう。
世界がどんなものであるかを知る。
それに続く、第二の目的は、自分とは何なのかを探る、ということです。