遠慮と思いやり その3
思いやる相手というのは、必ずしも他人とは限りません。
自分自身に対しても、思いやりの気持ちが必要です。
本当は楽しいことがしたいのに、今は悲しんでいないといけないからと、自分を押さえつけてしまうのは、自分に対する思いやりが欠けています。
周りの目が気になるから、好きなことができないというのも、自分への思いやりが足りません。
しかし、実際には常に周囲を確かめながら、それに合わせて生きる人が多いと思います。
本当に自分がやりたいことを我慢して、楽しいことを自分から遠ざけてしまい、それでつらく大変な自分の姿を、世間に認めてもらおうとするのです。
でも、そんなことをしたところで、何の得にもなりません。
誰かに慰めてもらっても、自分が置かれた状況がよくなることはありません。
それに、どんなにつらい自分を見せても、世間のほとんどの人は知らんぷりです。
自分には学歴がないから、自分には資格がないから、自分にはお金がないから。
そんな理由を並べ立てて、自分を押さえ込むのは、世間の価値観に、自分を無理やり押し込んでいるだけです。
それは世間に対して、遠慮しているのと同じです。
勝手な憶測で判断し、お決まりごとのように、自分を抑えているのです。
学歴が何だ、資格が何だ、お金が何だ。
そんなの関係ないよ。
自分は、今自分にできることをして楽しむんだ。
こう考えて、押さえつけていた自分を、解放してあげましょう。
こうでなければいけないという思考の鎖から、自分自身を解き放つのです。
確かに、風習や世間の価値観と違うことをすれば、白い目を向ける人がいます。
しかし、全然気にしなかったり、同じ考えを持って同調してくれる人もいるのです。
白い目を向ける人たちに合わせて、生きて行きたいのであれば、自分を抑えていればいいでしょう。
でも、自分を受け入れてくれる人たちと、一緒に生きていたいのであれば、自分を抑える必要はありません。
世間に遠慮して、自分を思いやれない人は、他の人が悲しんでいる時にも、その人を本当に思いやることは、むずかしいと思います。
我慢をしている人は、他人にも同じ我慢を求めるものです。
無意味な遠慮ばかりする人は、他人にも同じ遠慮を求めます。
自分を思いやれるからこそ、他人を思いやることができるのです。
まずは、自分を思いやる気持ちを、持つことが大切です。
それが、思いやりの社会を創るための、第一歩なのです。